「若者と仕事~学校経由の就職を超えて」

お薦めの本

「若者と仕事~学校経由の就職を超えて」
  本田由紀

○教育の「職業的意義」について考えさせられる。
 フリーター問題は、若者の意識の問題ではない。

(・引用/要約 ○関根の独り言)
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●はじめに 序章 「教育から仕事への移行」をめぐる閉塞の打開に向けて
・本書では「学校経由の就職」の支配と行き詰まり、そして「教育の職業的意義」
 の不在が日本の「若者と仕事」をめぐる混迷を深めているという理解を提示する。
・「職業的意義」を回復させることを通じて、若者が仕事の世界を生き抜いて
 いく上での実質的な力づけを行う。
・日本における「教育から仕事への移行」の閉塞をもたらしているのは主に
 労働需要側の要因ではあるが、混迷をいっそう深いものとしている原因は
 固有の歴史的経緯から生み出された「学校経由の就職」という独特な
 「移行」の形式にある。
・90年代初頭の段階では「フリーター」に対して基本的に
 好意的な見方が多かった。
 しかし2000年代に入ると「フリーター」に関するマスコミ報道は
 その悲惨さを強調するものへと変化する。
・「フリーター」問題を若者の意識の問題と見なす捉え方が
 強まってきている。
・1990年以降に起きた企業側の急変に学校側は適応できなかった
・日本では「教育の職業的意義」が、他の諸国とは比較にならない
 ほど損なわれてきた
・日本では学校と企業が直接に関係を結び、若者をやりとりする。
○こうやって考えると恐ろしいことだよな。
 本人の自由意志、選択する権利が尊重されない。
 「七五三現象」を、若者の忍耐不足等で批判する向きもあるけれど、
 「学校経由の就職」の問題もあるのかもなー。
・教育と企業という社会的領域の落差に、学校からの出口において直面させられた
 若者は、従来の組織間関係に基づく移行のバックアップも存在せず、
 当惑を余儀なくされている。
○言われてみれば確かにそうだよなー。若者は大変な状況におかれている。
・すべてを個人の「自己責任」に帰しては絶対にならない。
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●「学校経由の就職」の盛衰
・成人とは諸メルクマールをすべて達成し「社会へ完全に参加した存在」
 であるとされる。
 
 その中でも最も重要なメルクマールは、経済的自立、言い換えれば、
 職業的地位の確立である。
・組織の関与:強 + 職業能力形成:弱 が日本の制度的環境
・日本人にとって当たり前にみえる「学校経由の就職」の常態化は、
 世界的には特異な現象である。
・学校経由の就職は、生徒の希望をしばしば制約する。
・1950年代の日本の農村においては、戦後の帰郷者家族問題と次三男問題が
 顕在化しており、余剰人口をいかにして放出するかが課題とされていた。
○今では信じられないけど、当時は予測は難しかったのかなー。
・学校経由の就職は、1960年代に生じた偶発的な背景に基づきながらも成立し
 1980年代までは大きなほころびも顕在化することはなく、
 合理的で効率的なものとして日本社会に受け入れられていた。
 1990年代における偶発的ないくつかの諸要因により、
 大きく変化せざるを得なくなった。
・90年代における若年労働市場の悪化の背景には、人口構成という
 景気動向とは無縁の社会的要因が存在していたのである。
・女性の就業行動という要因も、若年女性労働力の労働市場への
 滞留を促進することになり、企業の新規学卒採用抑制を促す方向に働いた
・産業構造のサービス経済化。第二次産業の減少。
 非正規労働者への依存度が高い第3次産業の増加。
・企業にとってきわめて好都合な非正規社員を活用するという「うまみ」を
 一度覚えてしまった日本企業がその「うまみ」を手放さない可能性は高い。
・学校経由の就職の慣行は、今後容易に復活しない可能性。
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●「学校経由の就職」の定着に伴うコンフリクト
・教育と仕事という二つの社会的領域の接点においてはコンフリクトを伴うもの
 であり、これは若者の心理的な葛藤のみならず、社会的な領域間の
 コンフリクトとみなすべきもの。
・1960年代、ブルーカラー労働力を量的に確保するために、
 高卒者を採用し始めた。それまでは、中卒者が大半。
・中卒中心のブルーワーカーの職場に高卒者が採用されたことで、
 コンフリクトが起こった。
  中卒者 vs 高卒者
  高卒ブルーカラー vs 高卒ホワイトカラー
・日本企業では社内ローテーションそのものが、重要なOJTとして機能していた。
○小池先生の調査
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●1990年代における高卒就職の変容
・高校と企業の間の「実績関係」の衰退
・高校は企業の要求を満たす生徒を送り出し、企業も安定的な求人、採用を
 行うという形で信頼関係が形成されており、こうした「実績関係」が
 高卒者の「教育から仕事への移行」をスムーズにしていると言われてきた。
・「一人一社制」の原則
・学業成績や欠席日数などの客観的指標が、就職先の決定に直結する
 という点が、日本の高卒就職の大きな特徴とされてきた。
・1990年代以降、高校にとっての「実績企業」が大きく減少した。
・1994年頃までは、過去の継続性を維持しようとする作用が、
 高校ー企業間に残存していたが、95年以降は、若年労働市場環境の
 変化の下でそのような努力が放棄されはじめた。
・2002年以降、新規高卒就職における「一人一社制」は緩和されてきている
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●「フリーター」を生み出すもの
・1990年代に顕著な増加を遂げたのが「フリーター」である。
・フリーターは、アルバイトを転々とする社会集団。
 約半分が高校を最終学歴とする。
・フリーターの増加を、若者の意識の問題に還元してとらえると、
 社会変化の全体像を見誤りかねない。
・なにがきっかけで、フリーターになったのか。
・フリーターになるのは、本人の意識が過度に不明確な場合と明確な場合に
 両極している。
 同様に家庭のアドバイス機能も、放任的な親子関係で欠落している場合と特定の
 進路のみを想定した硬直的で過剰な期待や圧力をかけている場合の両極がある。
○親として、自分も気をつけないとなー。
 こうやっていろいろ知れば知るほど、子育てが怖くなる。
 知らない方が気楽かも。迷いそう。
 でも、ま、なるようにしかならないべ。
 親はなくとも子は育つ。
 俺は俺にできること、正しいと思うことをやるだけだべ。
 俺の勉強しすぎ、知識の詰め込みすぎの面は、
 うちの奥さんにカバーしてもらうべ。
・組織から組織への移行の「失敗」としてのフリーター
○こうやって決めつけられるのも本人としたら悔しいだろうな。
 「フリーターになったことは(負け惜しみではなく)失敗ではない」と
 後から言い切れるように。
 松井選手がメジャーリーグにいったとき「いってよかったね」と
 いわれるようになりたいといっていたっけ。
 (今回のMVP、おめでとうございます!)
・若者にとっては、彼らが属する教育機関の教育内容が実は自分にとって
 「意義 relevance」を欠いていたことが強烈に意識化されることになった。
○これはきついよなー。
「なんだよ。学校で習ったことなんか、全然意味ないじゃん。使えねー」状態。
 何のために学ぶのか
 その答えを、親や教育者は自分の言葉で持っておく必要があるんだろうな。
 俺は、自分の子供たちになんと伝えるだろう。
 
 俺自身は「学ぶことそのものが楽しい。仕事にも役立っている」
 そうしている姿を、子供たちに見せることぐらいかなー。
・近年の「フリーター」対策として指摘されるのは、高校等における
 「適切」な「勤労観・職業観の育成」である。
○これはそうなんだろなー。
 俺が、独立初期の頃お手伝いした「高校でのキャリア教育」も
 押し掛けボランティアとしてやった「小中学校でのキャリア教育」でも
 でてきたのは、この言葉だったもんなー。
 でも、若者個人の意識、職業観も大事だが、もっと大きな社会的領域での
 働きかけがないと、フリーター問題は解決しないということなんだろうなー。
・いったんフリーターになった後に正規労働市場に復帰することは
 時間の経過とともに益々困難さを強めているのが現実。
・フリーターの抱える困難を彼ら個々人に帰することなく、
 社会制度レベルで対処すべき構造的な問題として引き受けることが必要。
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●失われた「教育の意義」
・「意義 relevance」とは、二つの異なるもの同士の間に
 成立する、何らかのポジティブな関連性を意味している
・発達心理学者のJ.ブルーナーが、教育の意義を取り上げた。
 「教育は人々にいったに何を教えているのか」という
 「教育の意義」問題に真摯に取り組んだ。
○これは大事な問いだよなー。
・ブルーナーのような「教育の意義」へのストレートな取り組みは
 その後の教育研究においては支配的なものとならなかった
・コリンズの葛藤理論、ブルデューやボウルズとギンティスの再生産理論、
 ヤングらの「新しい教育社会学」マイヤーのチャーター理論、正当化理論、
 あるいは教育経済学におけるスクリーニング理論やシグナリング理論は、
 教育の意義に関して懐疑的な感覚を共有している。
 かつ「解決済み」であるという外面のもとで、実際には回避されてきた。
○これらの理論については、今後学ぶ必要があるんだろうなー。
・教育の意義は、教育ー学習行為に向けて学習者を動機づける最も
 健全な要素であるといえる
・学校知識の有効性で、日本の現実に当てはまるのは
「隠蔽説」であるとするが、実際は「空洞説」である。
○つまり実際に役立ちもしないし、受けている本人たちも
 役立たないと思っている。
・学校教育の意義に関する順位が高いのは、イギリス、アメリカ、
 スウェーデンである。
 逆に評価が低い国は、ロシア、日本、ブラジルである。
・特に日本では「友情をはぐくむ」「自由な時間を楽しむ」の2項目では
 評価が高いが、「職業的技能」「専門的知識」の取得、「自分の才能の伸長」に
 関して評価が低い。
・日本の若者たちが、学校の公式のカリキュラム内容には総じて「意義」を
 感じておらず、むしろ同年齢集団と日常的に顔を合わせ時間を過ごす「場」と
 してのみ学校教育を評価しているという事実。
○これは改めて考えさせられるよなー。別に学校でなくてもよい
 ということになってしまうかも。
 先生たちの存在意義そのものも。
 思い出や仲間づくりの場としてしか学校が機能していないというのはどうなのかな。
 
 それも大事なことだとは思うが、それだけじゃーないだろう。
 親としては何ができるのか。
 うちは、自営業だからこその強みとして
 家で仕事を手伝わせるのは一つかもな。
 しかし、根が深いなー。学校の問題。
・専門学校以外は、教育に対して「職業的意義」を見出していないという結果
・教育経験のあり方を改革することによって、主観的な「教育の職業的意義」を
 向上させうる余地があるということ。
○これは救い。
・日本という国には、大学教育の効果が「人格」の発展と結びついた
 ものとして認識されるという固有の特徴がある。
・日本の大学は「エリート型」の段階を脱し「マス型」の段階に入ってから
 既に30年以上経過しているにも関わらず、その教育の実践内容および
 主観的意味付与においては、依然として「人格形成」という「エリート型」
 段階の特徴が色濃く残っている。
・きわめて旧態依然たる大学の理念モデルに固着したままであることが
 その「職業的意義」の低さと表裏一体の関係にあると考えられる。
○これはあるんだろうなー。
 でも教養教育とか、人格形成も大事だろうしなー。
 人格形成は学校内というよりも、日々の生活の中でなされる?
 仕事が人を磨く?
・日本の高校や大学教育において大きな量的比重を占めているのが
 普通科や社会科学、人文科学など「職業的意義」の低い学科、学部である。
○そういえば、「入社後初期、職業発達研究の展望」(小林 1999)で、
 文系の卒業者は、ローテーションが多く、
 理系は最初の配属先から動かないという話があったな。
・中高年男性の「職業的自律性」は、学校教育に左右されるのではなく仕事に
 ついてから経験した継続教育訓練や、現在の職業のあり方に規定されている。
・諸外国では明らかに存在している、学校教育の量や質が「職業的自律性」
 を高めるという因果関係が日本では全くと言っていいほど存在していない
・「職業的自律性」という指標を用いた限りにおいては、日本の教育の
 「実際上の有効性」は確認されず、教育が実際的にも認識的にも効果を
 あげていないという「空洞説」を指示する結果が得られた。
○これは悲しいよなー。意味がない、ってことになっちゃうもんな。
 でも、そうではない。教育の意義はきっとあると反論する人も多いんだろうな。
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●若者に力を与えるために
・学校経由の就職をあえて「奇妙な現象」をみなすことにより、
 その本質的な限界を露わにした。
・新規学卒労働市場の自由化。
 1997年に大卒の就職協定が廃止され、
 高卒の「一人一社制」の緩和が進行
・インターンシップ、デュアルシステム、若年者トライアル雇用、社会人大学院、
 キャリア教育、ジョブカフェ等の諸施策は、若年労働市場の「アメリカ化」を
 目指すもの
・短期の職場体験学習や試行的雇用が若者の学校から職業への移行を
 円滑化する上での効果はあまり芳しくないとされている。
○これはそうなのかー。これ以外に良い方法はあるのかな。
・キャリア教育については、職業意識の啓発に重点が偏り、職業能力形成が
 重視されていない。
・学校教育における職業能力形成をより強化するという道も十分に可能
○これは具体的にどんな姿になるのかなー。
 職業専門学校的なイメージかなー。
 普通科高校、文系大学とかだと「職業的意義」があまりないということ?
 
 自分がその道を通ってきたから、自己否定するのが難しい。
 どこかに「そういう道を通ってきてよかった」と思う自分がある。
・20代という時期は、非正規就業や試行的雇用、最強幾訓練など
 を経験しながら納得のゆく着地先を模索する段階となってゆくと予測される
○こうなったらいいよなー。大卒で最初に正社員になれないと、
 その後はい上がれないなんて社会はやっぱり間違っている。
・職業的意義の特徴は、その変化の速さである。
 そのため綿密な継続的点検と更新体制を必要とする。
・内容豊かな職業教育
・高校を長期的には何らかの基礎専門に特化した高校へと再編することを提案したい。
○この辺が難しいよなー。
 あんまり若いうちから、自分の得意分野や適正は見極めれないのでは。
 この道でいこう!と専門に特化した高校に進んでも、
 入ってみたらあわなかったとか、仕事として続けるには力不足とか、
 少し年を経ないとわからないこともあるのでは。
 だからこそ幅広い知識や、自分の興味ある分野を見つけるための
 モラトリアム期間的な普通科、文系という選択肢が選ばれてきたのでは。
 少なくとも俺はそうだったな。
 アメリカの大学に行って、勉強そのものが楽しくなって人類学と国際関係を学んだ。その後の職業的意義は直接的にはなかったのかもしれないけど
 そこで身につけた「スケジュール管理」や「コミュニケーション」
「多様な価値観を受け入れようとする」ことは、今の仕事にも役立っているのかも。
 職業的意義をあまり短期に求めても、だめなのかもしれないなー。
・教育の意義を向上させるということは、特定の教育内容が学習者に
 要請されることの「理由」についてのアカウンタビリティー(説明責任)を
 教育に対して逆に要請し返す運動にほかならない。
・若者は「職業的意義」をもつ教育に裏付けられた職業能力という武器を
 携えて仕事の世界に入っていく。「教育の意義に基礎づけられた移行」こそが
 追求すべきモデル。
○その前提としては、やっぱり受け入れ先の企業が、若者の職業能力を尊重し
 それを発揮できる職場に配属するということか。
 しかしこれだといわゆるアメリカ式、ジョブディスクリプション方式になる。
 日本企業の現状にはあわないのでは。かつ変えていくとしても
 時間がかかるだろうし、本当にこの方向でいいのかという疑問符もつく
 日本型人材育成といわれる「ローテーション」が難しくなったり、
 それほどタイミング良く、その職業能力にあった職があるわけでもない。
 しかもいくら職業能力を身につけたからといって、所詮学校レベル。
 現場での仕事とは違うと思われるのでは。
○本田先生の「現行の学校教育に対する怒り(職業的意義がない教育)」と
「若者を救いたい(若者個人の問題では片付けられない)という想い」から
 生まれた本なんだろうな。
次はこの先生の「多元化する能力と日本社会」を読むべ。
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投稿者:関根雅泰

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