「経験と教育」 J.デューイ著
○私だと1回読んだだけでは、きっと理解できていない。
重要な部分を読み飛ばしている可能性もある。
何度か読み返すたびに、色々な学びが、きっとある本。
(・引用/要約 ○関根の独り言)
●編集者のはしがき
・「経験と教育」は、伝統的および進歩主義的教育の両方についての
明快な分析である。
それぞれの教育に見られる根本的な欠陥が、この本で記述されている。
いずれも一方だけでは十分ではない。両方とも非常に重要。
・伝統的カリキュラムには、固定した統制と訓練が必然的に伴われている。
それら統制と訓練は、子供の本性である能力と興味を無視することになる。
しかしながら、この型の学校教育に対する反動が、他方の極端
-不完全なカリキュラム、行き過ぎた個人主義、およびはき違えた自由を
標榜する自主性-を、しばしば助長しているのである。
○これは、日本における「ゆとり教育」とも重なるのかも。
・デューイ博士は、旧い教育も適切なものでなければ、新しい教育もまた
適切なものでないと主張している。
●伝統的教育 対 進歩主義教育
・教育における教材は、過去に作りだされた知識や技能から構成される
集合体からなる。
・学校の主要な任務は、それら過去からの知識や技能を新しい世代に伝達する
ことにある。
○「伝達」だからこそ、知識な技能を、子供たちに注入する「導管モデル」が
前提となるんだろうな。
・学校組織の一般的な類型というものは、他の社会制度から截然と区別される
一種の制度を構成することになる。
○回りくどい言い方だけど、学校での先生と生徒のやりとりといった形は、
一般的な世の中だと、なかなか見当たらない形だということか。
確かに、言われてみればそうかも。
1人の人間の言うことを、数十名の人間が黙って聞いている。
発言も許されない。
確かに、学校の中でしか見られない風景だな。
・教育の主要な目標や目的は、教材を包含している知識の組織化された統一体と、
あらかじめ用意された熟練様式を子供たちに習得させることによって、
子供たちに対する未来の責任と生活上の成功を準備してやることに他ならない。
○子供たちの未来のための準備 それが、教育の役割。
・教材も正しい行為の基準と同様に、過去から手渡されるものであるから、
生徒の学習態度は、概しておとなしく受身で従順でなければならないことになる。
・書物とりわけ教科書は、過去の伝承や知恵を代表する主要なものである。
他方、教師は、生徒を過去から伝わる教材に効率よく結び付かせるための
代理人であるにすぎない。
・新教育とか進歩主義教育と呼ばれるものの発生は、それ自体が伝統的教育
に対する不満の所産である。
○私が「日本の教育を変えたい」と思っているその対象は、
伝統的教育に対するものなのかも。
・生徒に教えられるものが、次々と増加し展開している状況そのものが、
生徒が教えられるものに積極的に参加することを許さないほど、
教えられるものと学ぶものとの隔たりが広く大きすぎるからである。
・学ぶということは、すでに書物や年長者の頭の中に組み込まれているものを
習得することにほかならないのである。
○これだと、つまらないだろうなー。学び手としては。
・新しい進歩主義学校では、もし成人による指示や指導があれば、それらが
どのような形式のものであっても、それらは生徒個人の自由を侵害するかの
ように解されるのである。
○これは、日本の「ゆとり教育」の一部で問題にされたことかも。
・新しい教育は、学習者の自由を強調するものだという。
自由が意味するものとは何か。自由の実現可能な条件とは何か。
・未成熟な子供たちの教育的発達を促進するに当たって、教師および書物の
役割はまさに何であるのかという問いである。
・どうすれば年少者は、過去の知識が現在の生活を理解する上での仲介者に
なるような仕方で、過去を親しく知るようになるだろうかという問題である。
○これがつかめないと、子供たちは「何のために勉強するのか」と
思ってしまうんだろうな。
●経験についての理論の必要
・教育的ではない経験だっていくらでもある
・ある種の経験は、ある個人の熟練を特定方向に伸ばすかもしれないが、
またその個人が凝り固まった言動をとる傾向に陥りやすくすることにもなる。
・何よりも重要なことは、もたれる経験の「質」にかかっているのである。
いかなる経験の質も、二つの側面をもっている。
それが快適なものか、不快なものであるかという直接的な側面と、
経験がその後の経験にどのような影響を及ぼすのかという側面である。
・質的経験を整えることこそ、教育者に課せられた仕事なのである。
●経験の基準
・伝統的教育の型に従うよりも、生きた経験に基礎づけられた教育の体系を
首尾よく実現する方が、はるかに困難な問題
・経験を引き起こす源は、個人の外にある。
・どのような環境が成長を導くような経験をする上で役立つか
○大人が職場で学んでいく際に、留意すべき点は同じかも。
-経験を引き起こす源は、周囲の環境(与えられた仕事、対人接触)
-どのような環境(職場、ジョブ)が成長を導くような経験に役立つか
・個人が世界の中で生きるとは、個人が状況の連続の中で生きることを意味する
・連続性と相互作用 経験の縦と横の側面
・生徒が教科に対して嫌悪感を持つようになると、それは生徒が間違っている
からである、と考えられる。教材の提示のされ方に難点があるのではという
疑問は何一つとして提示されなかった。
○これは、確かにそうだよなー。
先生の教え方が上手かったり、その先生が好きになったり、
興味をもったりすると、その教科そのものが楽しく、好きになることはあるもんな。
・伝統的教育は、次のような仮定のうえに立つ。
のちに必要とされる一定の技能を獲得し、一定の教科を学ぶことによって、
生徒は未来の必要や環境に対して準備するのは当然のことであるという仮定。
・将来のある時期に役立つだろうということだけで、
○これが、「いま」それを学ぶことにどんな意味があるのか、という
子供たちの疑問につながるんだろうな。
・将来において基本的に重きをなすのは、学習を継続していこうと願う態度。
・もし学習の過程において、個人がほかならぬ自分自身の魂を失うならば、
知識量を獲得し、読み書きの能力を獲得したところで、何の役に立つというのか。
・単に将来に備えるために、現在を利用するという理念は、それ自体が矛盾。
・伝統的学校は、未知の将来のために、現在を犠牲にする傾向をもっていた。
●社会的統制
・教育は生活経験である
●自由の本性
・永遠に重要である唯一の自由は、知性の自由である。
・伝統的学校の教育では、据え付けられた机が配列されており、また規定された
合図によってのみ移動することが許される生徒達は、軍隊的に管理されている。
・外面的な自由が増大するという現象がなければ、教師は個々の生徒についての
知識を得ることができない。
強要された静粛や黙従というものは、生徒たちが自分の真の本性を明示するのを
妨げることになる。
生徒たちは、人為的な画一性を見せることが強いられる。
○確かにそうだよなー。その子たちが、自由に行動しているところを見ることが
できない状態で、その子について理解するのは難しいだろうな。
「学校ではおとなしい子が、家では~、外では~」
そういう意味で、今、地域で友人のMさんがやろうとしている
「子供が自由に山遊びができる場を作る」という取り組みは面白いかも。
・教育の理想的な目的は、自制力の創造にある。
・思考することは、即時的に行動することを延期することになるが、同時に
観察と記憶の結合を通じて、衝動の内的抑制に効果をあげているのである。
●目的の意味
・伝統的教育においては、生徒の学業のなかに含まれている目的を構成する際に
生徒が積極的に協力することが保証されていない。
このことが伝統的教育の最大の欠陥である。
・我々は以前の経験によってのみ、結果がどうなるのかに気づくことができる。
●教材の進歩主義的組織化
・伝統的学校の教科は、青少年の将来にいつかは役立つであろうという、成人の
判断によって選択され整理されている教材から成り立っているので、学習され
なければならない教材は、学習者の現在の生活経験の外部で設定されたものである。
その結果、教材は過去のものを取り扱わなければならなかった。
○小学校に入った長女が、これから学んでいく伝統的学校の教科。
夏休みの今は、楽しんで小学校1年1学期の復習ドリルに取り組んでいる。
彼女に、たくさんの生活経験を積ませることが、何らかの手助けになるか・・・。
●経験-教育の手段と目的
・教育は、経験(個人の実際の生活経験)に基礎づけられなければならない
・教育の名に値するものは何であるか
●訳者あとがき
・デューイは、子供個人の精神と身体を分離し対立させてきた伝統的な教育理論に
強く反対した。
・生徒の主体的な教育的経験は、教師の積極的な指導なくしては成り立たない
もしデューイの経験概念を、児童中心の放任主義に傾斜する概念にすぎないものと
曲解するような教育学者がいるとすれば・・・
○これは、ゆとり教育で目立った「指導しない教師」に対するものなのかも。
・教科と教材の源泉が、生徒の経験に求められる
・本書は、現行の総合的学習の唯一の哲学的理論書である。
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