「新・コンピューターと教育」佐伯胖著
(・抜粋 ○関根の独り言)
●道具
・教育制度における「文科系」と「理工系」の分離に原因
・機械音痴は、理工系にとっての常識である
「課題を下位課題に分割する」ことができない
・対話すべき相手は、道具そのものではなく、道具のデザイナー
○道具はデザイナーの頭の中でイメージしたものが、具現化したもの。
確か養老教授が、世の中の人工物は、人の脳がイメージしたものだから、
私たちは「人の脳の中に住んでいる」という話をしていたな。
・便利な道具は頭を使わせない。でも、使わない頭は退化する。
頭は使った方がいいが、頭を使わせる道具は不便でしょうがない。
○確かに!今パソコンを使っていて、特にそれを感じる。
・「人を賢くする道具」と「愚かにする道具」がある。
●基礎学力
・基礎学力とは、私たちの「文字や数の文化」の豊かさに出会う「入口」
なのだといういうふうに考えなおしてみよう。
○18歳にアメリカに留学して、英語で授業を受け始めた時、これを感じた。
英語「を」学ぶというより、英語「で」様々なことを学べるのが楽しかった。
アメリカ人の考え方、今起こっていること。
英語「を」学ぶことで、別の世界(アメリカ人の)を学べるのが楽しかった。
○6歳の長女が、教えていなくても、ひらがなを読んでいる。
それはきっと、ひらがなで書かれている世界に興味をもっているからだろう。
文字が読めれば、自分の知らない世界が広がる。きっとそれが楽しいのだろう。
その楽しさを維持できるように、接していきたい。
●文化的実践への参加
・読み書きの文化的基礎性に「目覚める」のには年齢や経歴に
何の条件もない。「ああ、文字ってこんなに大切なんだ」と自覚し、
「こういう世界に自分も参加できる」ことがわかったとき、そのときが
「読み書きの基礎」が獲得されるときである。
○22歳のとき、スペイン語を学ぶために、メキシコに1ヶ月間滞在したことがある。
ボランティアで、貧しい家庭の子供達に、読み書きの支援をしに行ったことがある。
読み書きを学ぶ子供達の嬉しそうな表情。
日本ではあまり見たことがないものと感じてしまった。
純粋に学ぶこと、読み書きをおぼえることで、自分たちの生活が変わっていく実感。
貧しさから脱出する手段、生き抜くための手段としての勉強。
○31歳のとき、メルマガを始めた。
そのときにも「文字を書くことで、別の世界(発信者側)に
参加することができる」嬉しさを感じたな。
・学びとは、人が文化的実践に参加するための、自分らしい自己と世界との
関係作りの模索だり、展開である。
●インターネット学習
・「ともかくデータを集めたら、こういう結果になりました」という
「調べ学習」のオンパレードになる。
「だから何なのだ」「なぜそうなのだ」
「ほんとうに(つねに)そうだと言えるのか」
「もしそうだとしたら、今のこの私はどうでなければならないのか」
というディスカッションがあまりにも弱い。
○「調べ学習」の影響が、多くの若者の「ネットで答えを探してくる」
傾向にも出てきているのか?
・「分かち持たれた知能」と「学習者中心主義」こそ、
21世紀のネットワーク時代における知能観であり学習観ではないだろうか。
○新人へのOJTにも、当てはまる。
新人が得るべき知識、技術は、職場内外に「分かち持たれている」
ただ、新人は「誰が、何に詳しいか」最初は分からない。
OJT担当は「誰が何に詳しいか」を教え、その方々との接点を
コーディネートすることで、新人の成長を支援する。
●学びにつきあう
・大切なのは「答え」を与えることでなく、まず子供が疑問を抱くことに
共感し、~子供の気持ちにつきあうということ。
・教師は子供にとって「学びにつきあってくれる人」
子供が見ようとしている世界を「斜め後ろから見る人」
○大人である自分も、世界に興味をもつ。
小さな子どもの親として、子供達が世界を見始めようとする場に
いられるのはラッキーなこと。
子供のおかげで、自分も新しい世界に再度触れることができる。
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