「コンピューターと教育」佐伯胖著
○人間が「わかる」とはどういうことなのか。
コンピューターとの比較を通して見えてくるのかも。
(・引用 ○関根の独り言)
・コンピューターは特別な機械である。
・脳の「代替」としてのコンピューター、
「延長」として道具としてのコンピューター
○一度立ち止まって「そもそも・・・」と考えることは大事だな。
佐伯先生のように。
・子供は単純なアルゴリズムを獲得しているようにみえながら
実はそのような手続きの有効性や妥当性を、自らの経験や既有の知識によって
確かめ、納得しようとしていることが分かってきた。
○長女(6歳)次女(3歳)もきっとそうなのだろう。
子供の疑問に答えるのは面倒くさいことが多いけど、その疑問が大事なんだろうな。
・コンピューターは自分自身を疑うことができない。
・人間はシンボル(頭の中にあることを何らかの形として外に表出させたもの)
で「思考する」ことを始めた。
・子供が文字や数字を学校で「習う」とき、実は人類の何万年もかけた文化の
歴史をわずか数時間でたどり直すわけである。当然のことながら、そこには
理解を超えた自然の「知」にひれふす「おそれとおののき」に似たものが、
子供の心に再現される。
シンボル使用に際しての「おそれとおののき」と、それにもかかわらず、
世界を秩序あるものとしてとらえ、シンボルで表現していこうという
「決断」こそ、人間が「わかる」ということの原点だ。
「・・・そんな不思議なことがあっていいのか。頼っていいのか」このような
不安、おそれとおののきにもかかわらず、たしかに、それでいいと受け入れる
ことが、「わかる」というこおtの本質だと思われる。
このような「わかる」瞬間、私たちは人類の何万年もかけた文化の歴史が
この一瞬の中に凝縮されていることを感じる。
○学校で、文字や数字を習い始めた長女は、こういう「おそれとおののき」
畏怖に似た気持ちを感じているのかな。
今のところは、文字を書いて、人に示せることを楽しんでいるようだ。
(「と」などが鏡文字になるのと、文章が横書きのとき右にいって
左に逆側に戻ってくる。まだ特に指摘はしていない。)
・科学を生み、技術を発展させた「分析的思考」は、一切のものを
要素に還元することによって、自然や社会を自由に作りかえ、コントロールする
力を人類に与えた。
・教育とは、すべての人々がわかろうとすることを助ける、人々の、社会の、
文化的な「配慮」の実践であったはずである。
(コンピューターのブラックボックス化、エリート専門家しか
扱えないのはおかしい)
・モデルは、現実世界を別の世界で「見立てた」もの。おはじきやタイル計算など。
・わかる知力というのは、ふだんなんとなくわかったことにしてしまっていること
に対して、本当は全くわかっていなかったことを鋭く感じ、そこに
「わかるべきこと」が確かにあると気づくことから始まる。
いわば、ソクラテスのいう「無知の知」である。
・私たちの学習過程は「わかる」と「できる」の行ったり来たりであろう。
このような「わかる・できる」のジグザグ運動にかきたてるもとに
なっているのが、人間の本性が求める「一貫性、最適性、開放性」
「論理性、機能性、社会性」である。
・「ふと疑問に思うこと」を、自分で意識的に取り上げて考えてみることも
他人から考えることを促されたこともおそらくなかったのであろう。
○これは、今後気をつけていかないと。娘達が「ふと疑問に思うこと」を
考える機会を作ってあげたい。
・従来の学校教育の中での語学教育は「いいたいこと」が全くない状況で
「日本語で書かれたものを英語に直す」という翻訳技能中心のものであった。
○これは本当にそうだよな。だから面白くなかったのだろう。
「いいたいこと」がある。その伝達の手段が英語。
「知りたいこと」がある。書かれているのが英語なので、それが読めれば
書かれていることが分かる。いわゆる舶来の知識を得る際の考え方なのだろう。
・コンピューター技術は「教育を変える」ことはない、否、あってはならない
というのが筆者の立場。
・そもそも「教育的」ということは「機械的」ということと正反対の概念
なのである。反対の側で緊張関係を保って見守っている。
・人間はシンボルを使う動物である。
・「君も、教育について考えてみてはどうかね。」
○佐伯先生が、工学の世界から教育の分野に入ってこられたとは知らなかった。
自分はまだまだだが、この問いは自分の中にも温めておきたい。
コメントフォーム