「教授・学習過程論~学習科学の展開」

お薦めの本

「教授・学習過程論~学習科学の展開」
 大島純・野島久雄・波多野誼余夫 著

○学ぶ・教えることに関する様々な学説を
 わかりやすく解説してくれている本。

(・引用/要約 ○関根の独り言)
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●学習科学
・人は一人で考えているとき、多くを語らない。
 すなわち認知科学研究が重きを置く言語報告という
 データがなかなか収集できない。
・他者と話し合うことを通して人が理解を深めていくとき、
 説明を通して理解が深まると同時に、何かわかるとさらに
 その先に問題があることを認識でき、学習を継続する。
 他者の存在は、そうしたことに気づかせてくれるだけでなく
 その他者の発言自体が本人の理解をさらに深めていくヒントになる。
・CSCLテクノロジは、考えを記録し、共有しながら、
 修正を加えていくことで、考え自体を向上させることを手助けする。
・子供がもっとも支援を必要とするのが、内省的思考(Reflection)
 と呼ばれるメタ認知活動である。
・熟達化の過程において「人から教わること」「自分の失敗から学ぶこと」
 が、代表的な2つの方法。
  
 自分で自分の能力を試してみるために、なにをしなければ
 ならないのかを十分に検討している。
 これは一般的な教室場面ではなされているとはいえない。
 熟達化を目指している個人がおかれている組織の状況として
 そこには自分が目指すべき最終的な熟達者の姿(師匠)の
 活動が見えていて、かつそうなるまでにどのような習得の
 段階を経ていかなければならないのか、異なるレベルの他者
 (兄弟子)も観察することができる。
 教室で同じような知識レベルのこども30数名の中で、
 一人の教師から学習を支援される状況は、日常的な学びの活動と
 比較するとかなり逸脱しているといえる。
○確かにそうだよなー。
 職場での学習も多様な他者に囲まれた場ともいえる。
 新参者である新人は、自分で何をしなければならないかを
 十分に検討できる機会をきちんともらえているか。
 
 ある程度、時間がたち、仕事の全体像が見えた段階で、
 上司とそういったことを話すというのは考えられるかも。
・思考は「内的表象の変換過程」ととらえることができる
・学習の進化の初期におこった重要な出来事の一つに、
 反射行動から試行錯誤へという変化がある
 
 試行錯誤により自発される多様な反応型は、
 新たな環境への柔軟な適応を可能にしてくれた。
 しかし完全な試行錯誤には無駄が多いので、
 それを克服する為の工夫として「学習に制約をかける」
 「他者を利用する」がある。
・乳幼児は、知的に有能な存在。ただ、会話に関する
 知識の未熟さによって覆い隠されることも多い。
・初心者が熟達者(Expertise)になる過程。
 プロレベルになるためには、十年にわたる1万時間の
「よく考えられた練習」が必要であることがわかった
「熟達の10年ルール」
・2種類の熟達者
 「手際のよい熟達者 routine expert」
 「適応的熟達者 adaptive expert」
・一つの領域においても、多様な熟達のゴールがある。
○企業内研修講師という領域における熟達のゴールとして何があるか
 「集合研修運営のプロフェッショナル 職人的講師」
 「研修前後にも関わるパフォーマンスコンサルタント」
 「他講師を手配する プロデューサー型」
 俺が目指す熟達のゴールは?
・よりよい熟達のための学び「よく考えられた練習」
 をデザインすることが重要
○職場に入ってきた新人が熟達していくために、
 どんな「考えられた練習」をさせるか
 職場においては「ある程度の熟達」まで行ってくれたら
 あとは本人任せという感はある。
 そこまでは「よく考えられた練習」を先輩、上司が
 考えたとしても、あとは自分でやってと。
 そこで本人に「自分が何を練習し、経験するかを
 考えさせること」が大事なのかも。
・問題を現実と切り離すことによって形式化する
 というのは、学校教育の強力な成果
・日常的な学びの形態として「徒弟制」においては、
 貢献が感じ取れる雑務、周辺的な作業から、新参者を携わらせている。
・人は他個体の行動から学習する種であるばかりでなく、
 教育する種でもある。
 ヒトは教える本能をもつばかりでなく、発達の援助を積極的に行う。
・文化の分析単位として「文化的実践」と「談話(対話?)」がある。
・アメリカの教師は、行動主義的(直接的な教授法)であり、
 日本の教師は、構成主義的(間接的な教授法)である。
 日本の授業は、誤りを否定しようとしない授業
○これは日本の学校に行かせている親としては、
 希望がもてる話だが、本当にそうなのか?
 自分の狭い経験の範囲内だが、自分がいった小学校の授業
 (特に6年)はそうではなかったような気がする。
 教師による生徒いじめのように、今思えば感じるような
 出来事があった。俺の考えすぎ、被害妄想かもしれないが。
 ただ、そのときに感じた教員に対する不信感、怒りの感情が
 今、自分が教育に関わっている一因になっているのだから、
 おもしろい。
 何かを変えるというエネルギーは、怒りなど負の感情
 から起こすものなのかも。満足していたら、変えようとは思わない。
 アメリカの大学を受けて感じているのは、アメリカの
 大学教育の質の高さだ。それは教員個人の能力というよりも
 システム的なものなのだろう。
 日本は初等、中等教育が、アメリカに比べて
 優れていると考えられている。
 確かに、自分も自分の子供たちをを、アメリカの
 小中学校に行かせたいとは思わない。大学以上なら別だが。
 その日本の初等、中等教育は、本当に優れているのか。
 優れているとしたら、それは教員個人の能力なのか、
 それとも仕組みそのものからなのか。
・幼児はある程度の因果的知識をもっている。
・特定の学習法やトレーニングの有効性、およびその到達度が
 脳の働きとして客観的に測定できるという事実がある。
○これは、今後の効果測定に関わってくる話かも。ただ、
 そこまでの(脳を検査する)コストをかけてまでやるかは、
 企業内研修の場合、疑問だが。研究の一つとしてはあるだろう。
・学びにおける協調の意味~自分とは違う考え方に
 直面することで、学びを深めていく
・プロと呼ばれるレベルにある「適応的熟達者」は、
 そこに至るまでに、約5000時間かかると、Normanは推定。
・協調的に学ぶことの意味は、ヴァリエーション
 (1つの課題にたいする多様な解放や解)を集積し、
 その統合や比較対照といった吟味を通して、
 各人がスキーマを構成していく点にある。
・アイデアなどが外界に見える形で表されることを
 「外化」といい、外化によってアイデアは集積される。
○協調学習を行うためには、
 考えるの見える化(外化)その共有、吟味、
 そして新たな一般解を構成していくという流れなのかな。
 分散認知~知識は分かち持たれている だからこそ、
 他者の知識を共有、吟味し、新たな知識を形作っていくということか。
・単独では出にくかった複数の解法が共同では試せる。
・課題遂行者とモニターの役割交代
○これは、企業研修におけるロールプレイが果たしていることかも。
 役割を演じるという課題を持って当事者として関わっている
 参加者と、それを観察するモニターとしての参加者。
・ヴァリエーションは違っているから役に立つ。
○これは、成人教育の場面では作りやすい状況。
 皆、バックグラウンドが違う人たちが集まる、
 ヴァリエーション豊富な参加者。
 
 児童教育ではどうか。ヴァリエーションをどう引き出すかが鍵か。
・「違い」を萌芽として、外的な状況とうまく相互作用を
 繰り返しながら考えを深めていくことが、
 協調的な理解深化の鍵といえる。
・協調学習をふんだんに使って、その中での学習者の
 理解過程を明らかにしようとする「学習科学」という
 1990年代以降発展してきた学問分野がある。
・「自ら学ぶ力」「問題解決能力」は、ただ教えられる
 だけでは学習者の中に育つとは考えられない。
・教育者が学習者に対してできる最善のことは、
 彼らの自発的な活動を支援することなのである。
・「学習者中心の考え方」は、「構成主義(constructivism)」
 という基礎的研究の知見が背景にある。
 それは「学びとは、学び手自身が理解を意識的
 に作り上げていくことだ」という認識論である。
・それをふまえて「学習者中心の考え方」とは、
「学習者が持ち込んでくるであろうそれまでの理解、
 信念、技能などを適切に把握し、それをふまえて学習者
 自らがうまく新しい理解を積み重ねることができるよう
 支援すること」である。
○このあたりは「教え上手になる!」で書かせてもらった
 内容と重なるな。当時は知らずに、経験の整理から書いてきたが、
 すでにそういう考え方が提唱されていたのか。
 方向は間違っていないが、やっぱりまだまだ勉強不足だな。
・数学教育の中ではあるタイミングで「数の世界」だけで
 推論することを要求され始めるが、日常の世界で考えることを
 誘発するような教材を提示すると、子供を混乱させることがある。
○これはあるだろうなー。小1の娘の算数を手伝っていて、
 今は実社会にあるもので説明できる(足し算、引き算)けど、
 そうでない「数の世界の話」(マイナス?)をどうやって
 教えたらいいのかわからない。
 「これは、こういうものなの」だと納得しないだろうし。
 このあたりからプロの教育者の力が必要になってくるのかも。
・形成的評価は、学習者自身に学習者中心の考え方を
 認識させる効果がある。
 すなわち「学習していく問題は教師が与えてくれるのではなく
 自分たちが今何をしっていて、今後何を知りたいと思って
 いるかを明確にすることから生まれてくるものである」と
 いうことを認識し、問題解決としての学習への姿勢を
 定着させていくことができる
●教師教育
・学習科学研究のなかで、教師の成長を促す機会の提供が
 一つの研究テーマとなってきた。教師の成長を促すことが、
 彼らが指導する子供たちの成長を促すから。
○これは魅力的なテーマで、関わっている研究者も多いように
 見受けられる。
 やる側としてはおもしろいが、現場の教師側からみたらどうなのか。
 よけいなお世話と反発されることもあるのでは。
 俺が「日本の教育を変えたい」と思ったきっかけ
 「自分の小学校時代の経験」「アメリカの大学での経験」。
 そこから考えると、教師教育は一つのテーマかも。
 直球ではなく、別のやり方(より現場教員に受け入れられる)でいくかな。
・日本の学校教育において授業研究という実践活動は
 確立されたシステムであり、これを通じて教師の力量が
 向上させ続けられたことに疑いはない。ただ、問題点もある。
・教師の力量は、3つのタイプの知識から構成されてる。
1)教科専門の知識 2)学びの認識論 3)教授学的専門の知識
・教師がもつ「学びの認識論 epstemology of learning」が、
 どう教えるかという「教授学的専門の知識 pedagogical content knowledge」
 の質を決定する。
・従来の知識伝達型(認知心理学的?)「教師の知っていることを伝達する」
 という学びのモデルから、現在は構成主義に基づいた
 「学習者自らが理解を深めていこうとする活動の支援」としての教授という
 考え方へ移行している。
・今後の教師教育としての授業研究は、学びの認識論について、
 より深く考えることで、異なるタイプの教授学的専門の知識を
 さらに発展させていくことができる。
○教師が「学び」をどうとらえているか
(新しいことを覚える、本人が変化する、共同体になじむ)によって、
 どう教えるかも変わってくる
・教師とは異なる専門家とのコラボレーション授業
○これはおもしろいなー。こういう関わり方はできるかも。
・自分の職責からいったん離れて考える機会の重要性
○これは、Off-JTの有効性をサポートしてくれるかも。 
 ただ、この事例は、長期に職場を離れるというものだからな。
 数日間でも集合研修等でじっくり考える時間をとれるのは大事。
 「じっくり考える時間をとりますよ」というアナウンスを参加者に
 より徹底し、考える準備やそのことに対する期待感を持たせることも大事かも。
 「研修観」として、研修は知識獲得の場、と考える人も多いだろうから。
・「教師=学習者」中心の考え方で、教師教育のカリキュラムを
 デザインすることが今後必要とされている。
・個人学習と違い、協調学習(collaborative learning)が活動の中心と
 なるような講義デザインでは、学習者の評価は非常に複雑になる。
 「学習者の評価」と「学習環境の評価」の両者に着目する必要がでてくる。
・学習科学がユニークな立場をとるようになったのは、
 新しい学習観である「分散認知」の台頭がきっかけである。
・状況的認知(situated cognition)論を唱える研究者たちは、
 知識は道具や他者との間に分かちもたれているのであって、
 決して特定個人の中にしまい込まれているものではない、と主張する。
・学習科学では、教育研究にデザイン科学のパラダイムを採用すべきである。
 デザインしたものを現場で試用して、その結果をもとに繰り返し改善を
 試みるべきもの。
○これが俺ができることなのかも。研修という実践の場で、
 様々なことを試みる。そして、「分析科学のパラダイム」も活かし、
 研修を通じて、その調査、検証を行う。研究者の卵として、
 集合研修の場があることを、大事にする。
・今後は「場の雰囲気」といった独立変数の影響の観察研究も必要になる。
○これは職場での学習を考える際にも大事かも。
○いろいろやるべきこと、やりたいことが見えてきた。
「放送大学」のテキストは、読みやすく分かりやすいものが多い気がする。
「放送」というメディアを通じて、学習者の知識構築を支援しようと
 しているから、いろいろ工夫をしているのかも。
 できれば、映像と一緒に学ぶといいんだろうな。

投稿者:関根雅泰

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