「メディア論」
吉見 俊哉, 水越 伸
○メディアリテラシーについて、色々考えさせてくれる本。
「メディア文化論」とあわせて読むとよりいいのかも。
(・引用/要約 ○関根の独り言)
●メディアの歴史
・メディアとは、社会的な場
・社会的に構成されたもの
○「こういうもの」と皆が思うこと=社会的に構成?
・人が世界を構造化する仕方そのものに、メディアは影響を与える
・メディアの歴史的発展は、近代の欲望にかたちが与えられることで進んだ
・メディアは媒介的であり、基底的である。
・メディアは決して技術的な発明によって社会にもたらされるものではない
○第2章~5章は、吉見先生の「メディア文化論」内容と
重なる。新聞→映画→電話→テレビ という流れで紹介。
・マスメディアは、司法、立法、行政とならぶ
「第4の権力」と呼ばれるようになった。
・メディアは、歴史社会的に生成されてきたものであり、
たえず変容していくもの。
・今の日本の新聞のあり方は、戦争時の言論統制政策に
よって深く枠づけられている。「全国紙」「ブロック紙」「県紙」
・日本は世界でもっとも新聞が発達した国
・社会的な次元から個人の認知の次元まで、
深くマスメディアの影響を受けてきた。
・日本のマスメディアの問題点
1)新聞とテレビが圧倒的な力をもったことにより、
多様なメディアのバランスのよい発達が阻まれた。
2)世界に向けてひらかれていない。
3)送り手と受け手と判然と分けられてしまった。
○「メディア論の系譜」も、吉見先生の「メディア文化論」に
詳細がでているので、ここでは割愛。
●メディアリテラシー
・コンピューターもまた歴史社会的に生成展開してきたメディア
・パーソナルコンピューターは、若者の共同作業と
カウンターカルチャーの一連の動きの中から生み出されてきた。
・コンピューターは、常に国家権力や巨大メディア資本の
動向と不可分のかたちで技術的に更新されていく
・コンピューターの社会的展開は、人間としてのあり方
そのもに根本的な影響を与えつつある
・人々の日常生活は、巨大メディア資本の市場と化している。
・公共文化的な役割を果たしてきたメディア事業が、
マネーゲームの取引対象となっていく。
○この本が書かれたのは、2001年。
ライブドアによるフジテレビの買収さわぎや、
楽天によるTBSの買収という話が起こったのが、この後だっけ。
・私たちは自分がそれまで気に入っていたソフトウェアの環境から
無理矢理引き離され、いわばメーカーの論理に従って
新しいものを使わざるを得なくなるということが一般化している。
○これはほんとそうだよなー。ウィンドウズの切り替えなんかまさにそう。
XPでなれてたのに、ビスタのPPTは使いづらい、とか。
これも、消費者にそこまでの労力を強いていると
いうのもどうなのか。ほかに選択肢がないから使っているが。
そういえば、「富と未来」の中でも、A.トフラーが、
消費者に様々な作業を強いる(ATM等)ことについてふれていたな。
俺らにやらせておきながら、手数料もとる。ふざけているよな。
・オンライン雑誌は、大半がIT関連企業からの広告収入に頼っている。
このため、記事と広告の垣根が低くなり、間連企業の批判を
避けるようになってきている。
○これは、新聞でも同じような状況だろな。
広告を出してくれる企業に対するような記事は載せにくい。
(特に、T社など)
・マスメディアが錯綜した権力関係の中におかれて
いることは、絶えず意識しておく必要がある。
・メディアリテラシーは「メディア使用活動」
「メディア受容活動」「メディア表現活動」で構成されている。
○これは山内先生の「デジタル社会のリテラシー」で区分されている
情報リテラシー=メディア表現活動
メディアリテラシー=メディア受容活動
技術リテラシー=メディア使用活動
と対応させて考えちゃってもいいのかな。
・マクルーハンは、テレビなどの電気メディアが、
活字メディアに枠づけられた人間の思考様式をもみほぐして、
口承メディア時代のバランスのとれた感覚世界へ回帰させるのだと主張。
○これは、本当にそうなったのかな?
・2002年から学習指導要領が大幅に変更され、
小3以上高校まで「総合的な学習」が始まる。
高校では「情報」という科目がもうけられる。
・学校では、テレビドラマやゲームなどのマスメディア、
大衆文化を排除し、なるべく語らないでおこうとする傾向が強い。
・メディア機器の普及がもたらす影の部分に対応する
ことは長い目でみて企業の利益ともなる。
○ビジネスチャンスにもなりうる。
確かに、有害サイトを人がチェックして
フィルタリングをする会社もできたもんな。
・メディアリテラシーの根本的な問題
1)啓蒙主義的イデオロギーの限界
2)特定の言語や文化の支配的地位と結びつく傾向
・「能動的な表現者であると同時に
批判的な受容者であるような市民」
・「送り手対受け手」という2項対立図式を乗り越え、
メディアの全体性、循環性を取り戻す。
○ネットができて、一般の人が、表現、発信できる
ようになったのは大きいよな。
俺自身、2003年にメルマガを発行し始めたことで、
大げさではなく人生が変わった。
2005年に独立し、2006年に本を出版。
表現者の側に回ると、受容者になったときに、
情報の見方が変わってくる。
まずは表現者の側に立ち位置を変えることも一つかもな。
週末起業支援の森さんたちがいうように。
・人間は本来、情報を送りもすれば、受けもする。
循環的で全体的なコミュニケーションを行っている。
・メディアリテラシーを備えた新しいメディア表現者たちの台頭
○地域住民によるテレビ放送というのは面白いなー。
田舎でこそ成り立つかも。
・彼らは、社会の「中心」からではなく、
「周縁」から立ち現れてくる。
○日経ビジネスの特集記事でも
「辺境からの経営者」というのがあったな。
地域も「若者、馬鹿者、よそもの」が変えるという
考え方がある。これもいわば「周縁」だよな。
中心にいて、既得権益を持っている人たちからは、
変化は起こりにくい。
・新しいメディアの展開は、社会の権力構造や
システムを転換させる潜在力をもっているのである。
○これは勇気がでる言葉。ネットというメディアで、
今までのシステムを変えられるかも。少なくとも、
その舞台のとばくちには立てたと思っている
・「限界芸術」としてのメディア遊び
○これは確かにあるよなー。ネットでの情報発信は、
人によっては「何でそんなことやるの。私にはわからない」
といわれるときもある。
俺の場合は、ビジネスに直結しているということもあるが、
「面白い、楽しい」ということがある。
なぜ面白いのか?
学びが深まるから。人から反応があるから。
世の中に小さな影響を与えられるから。様々な人とのつながり
(しばらくたったあとでの問い合わせや仕事、共同プロジェクトの種)
書くことで、人生の記録になる
いろいろあるけど「遊び」感覚というのは確かにあるのかも。
・メディアリテラシーは、人々のコミュニケーション活動の
全体性、循環性を回復する。表現をすることで、
メディアリテラシーを獲得していく。
○俺もそう思う。
・昨今の電子的な「ネットワーク」メディアは、
脱場所化、非同期化、双方向的な自己編集性を促している。
・メディアが我々の身体にいかなる緩衝地帯もない
状態で直結されている。我々の身体は、あらゆるタイプの
メディアの作用にひどく無防備にさらされているのである。
○これは考えようによっては怖いよな。大人よりも子供。
特に、自分というものができあがっていない時期に、
メディアに直結させられる状況は、少し考えたほうがいいかも。
身体感覚を大事にさせたい。
そういえば、今日(8月20日)の埼玉新聞に
「外遊びをして早寝をする子供は、自尊感情が高い」という
記事がでていた。
小学校に入ってから、長女は外遊びが減った気がする。
早寝はしてくれているが。
●グローバル情報化
・東アジアのメディアの現状として
1)アメリカを中心として秩序立てられてきた
メディアのあり方が、より重層的で複合的なあり方へ変化
2)混成的、雑種的なアイデンティティーと
メディア活動が生まれてきている
・国家から相対的に独立した市民文化が
日本ではうまく育っていない
・今日の変化は「IT革命」と呼ばれるような
短期間なものではない。
より持続的で広範囲に及ぶ変化である。
・メディア論は、混沌とした情報社会で生き、
社会的なコミュニケーションをしていく上で、
大切な指針やより所となる思想なのだ。
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