「デジタル社会のリテラシー」
山内 祐平
○メディアリテラシーを身につけさせる教育の実践例が面白い。
やってみたくなる。
(・引用/要約 ○関根の独り言)
・本書では百家争鳴のリテラシー概念について整理し、
なぜデジタル社会のリテラシーを学ばなければならないのかを考える。
・一人で本や機械と格闘しながら学ぶのではなく
「学びのコミュニティー」の中で、意味を感じながら
学ぶための方法について紹介する。
○俺が今本を読んで、その内容をブログに書いているこのやり方は
まさに「格闘しながら学ぶ」という感じだな。
今俺がやっていることを、他者と協力しながらできるか?
それをやるためには、同じようなことに興味があり、
同じぐらいのレベルの人と集まる必要があるのか。
大学院に期待していることに、そこもあるのかも。
●混迷するリテラシー
・教育の現場においては「情報リテラシー」「メディアリテラシー」
「技術リテラシー」の3つの流れがある。
・「情報リテラシー」はあふれる情報に対処するためのもの
・アメリカの「インフォーメーションリテラシー」は、
図書館情報学分野を中心に提唱されてきた
○そういえば、アメリカの4年制大学に編入した最初の学期(1993年ごろ)に、
図書館で資料の調べ方とか図書館の使い方とかを授業でやったときがある。
そのときは「なんでこんなことをわざわざ学ぶのか」と思ったが、
教わったことのいくつかは活用できた。
当時は、まだカードで本を探していたように思う。
パソコンも何台かはあったが、皆に行き渡るという状態では
なかったように思う。
・1990年代、東京の苅宿教諭による授業から、コンピュータを
道具として利用することで学びを支援するという動きが広がっていった。
・情報リテラシーは、情報の処理とその加速を重視している。
・「メディアリテラシー」は、メディアを読み説くこと、
批判的にみるためのもの
・マスメディアに現れている「現実」は、
「送り手によって構成された現実」である。
我々は人工的、社会的に構成された現実の中に生きている。
・メディアとふれあうことは、きわめて日常的な行為であるのに、
我々はそのことに無自覚である。
メディアリテラシーは、無自覚に行ってきたことを、
意識のレベルに引き出し、自分のメディアの関係について、
反省的にとらえることを可能にする。
・日本では未だに啓蒙主義的な考え方が幅をきかせている。
教師は本や新聞などの文字メディア以外に関心が薄く、
特にテレビなどの映像メディアに関しては「大衆メディア」として、
あまりいい印象を抱いていないことが多い。
○アメリカの短大に行っていた頃のサリバン先生は、歴史を教えるときに、
映像メディアを多用していたよな。文化人類学のシャン・ウィン先生もそうだ。
実際に自分がやるとしたら、映像メディアを教材として使う際に、
まずその情報を集めることが大変(いつ、どの番組に使えそうな情報が
あるかわからない。本はそれがつかみやすい)なのと、
使用する許可が日本では面倒くさそう。著作権など。
でも、映像メディアを教材として使いたい。
今はユーチューブでも探せる。もう少しやってみよう。
・メディアリテラシーを学校で教えることは、矛盾をはらんだ営みである。
学校は啓蒙主義的な「メディア」として機能している空間であり、
教師と学生の間には一種の「送り手ー受け手」の関係が構成されている。
メディアリテラシーは、教師と学習者の関係に関しても、
本質的な反省をせまるものなのである。
・「技術リテラシー」は、情報技術とつきあうためのもの
・技術リテラシーは、読み書きという側面よりも現代社会を
生きるための知識や教養という色彩が強くでている。
・デジタル社会においては、技術的要因が様々な領域で影響を
及ぼすようになるが、それでも限定的である。
・「情報リテラシー」は、教育工学や認知科学
「メディアリテラシー」は、メディア論、カルチュラルスタディーズ、
批判的思考研究、視聴覚教育
「技術リテラシー」は、情報科学や情報工学、技術教育などが支えている。
・お互いほとんど重なりがないため、お互いの主張を知る機会すらない。
・学ぶ側に実質的なメリットを提供するためには、
この3つの領域のリテラシーを統合的に扱う必要がある。
●デジタル社会のリテラシー
・物語の構造(はじめから終わり)は、
文字文化による影響(ページが順番に続く)
・「大分水嶺理論」は、文字の獲得によって人間の知的発達に
革命的変化が起こったと主張する
・ユネスコの機能的識字(Functional Literacy)は、識字率の向上に
貢献したが、現状の社会をそのまま受容し、そこへの適応を目標にする事に
対する批判も行われた。
・P.フレイレは、従来の識字教育で行われてきた
単語や文章の記憶中心の方法を否定し、
貧しい被抑圧者が自らの社会に批判的に関わるプロセスの中で
文字を学ぶ方法を開発した。
フレイレは、従来の暗記中心の教育方法を「銀行型教育」として
批判し「課題提起型教育」を提唱した。
これは対話の中で現実から問題を認識していくプロセスを重視する。
「世界の意識化」が重要な概念。
文字をもたないということは、自分を取り巻く世界との関係を
築けないことを意味する
・フレネは、子供達が思いついたときに、興味関心をもったことを文章にし、
それを印刷して学校の中で活用した。
・フレイレもフレネも、文字で書き表すことで状況を可視化し、
操作可能にし、共有可能にするという点で共通している。
・いったんリテラシーが持っている「力」を経験し、
新しい思考を切り開くことができたり、コミュニティーに
認められるような経験をすれば、次の学びへの強い動機づけとなる。
○俺がメルマガを初めて出して、読者が100名ちょっと集まったとき、
感じたのもこれだったなー。
自分が発信する情報に興味をもってくれる人がいる。
組織の中にいたときは認められなかった力が、外に出してみたら
認められた。うれしかったよなー。
・ロシアの心理学者 レフ ヴィゴッキーは、2つの大きな柱から
なる理論を打ち立てた
1)人間の活動が道具、記号によって媒介されていること
2)高次の精神機能が社会的に構成されること
言語を獲得するプロセスでは、大人達のまねをすることから始まり、
言葉を発することで大人がどう反応するかを見ながら、相互作用の
中で意味が構成され内化されていく。
学習は本質的に社会的であり、個人の生物学的な環境適応活動だけに
還元することはできないと主張。
・ZPD(zone of proximal development)最近接発達領域という
アイデア。これは子供だけで解決できるものと、大人などの支援があれば
活動できるものと、人間の発達における水準が違うものがあると提唱。
・ホールの「エンコーディング/デコーディング」という考え方
エンコーディングは、送り手がメッセージを構成し、
記号化していくプロセス
デコーディングは、受け手が送り出されたメッセージを読み解き、
意味を生成する作業。
この時に、読み手により3つの立場がとられる
1)支配的ーヘゲモニックな位置
2)折衝的ーネゴシエーティブな位置
3)対抗的
○この説明、分かりやすかったなー。
この考え方がふれられている本を4冊読んで、やっと少し意味が分かった。
・ソシオメディア論は、現在のメディアの姿は過渡的な状況にすぎないとし、
それは姿を変えていく存在であると考える。別の形がありうることを
常に念頭においた上で現在のメディア状況に向き合う。
・批評的な読解は、きわめて複雑な活動である。
一人でこもって本を読んでいても習得できない。
ヴィゴッキーのZZPDのように批評的な読解ができる大人がいる
集団において、多様な対話が行われる中で徐々に内化されていくものである。
○一人で学んだ方がいいものと、大人や他者と一緒に学んだ方がいいものがある。
この区別がつけられると、子供達の教育にもいいだろうな。
○批評的読解、これは俺が大学院に期待することの一つかも。
そういう読み方ができる仲間と一緒に学ぶ。
・21世紀は、市民の映像の世紀になる。レポートと同じような感覚で
映像を制作し批評しあうという文化。
○俺ももっと映像を活用できるようになりたい。
そういえば、昔「さんまのからくりTV」で
素人のビデオ投稿があったおもしろかったなー。
今だとユーチューブかな。
自分も撮る側に回ろう。
・我々が「現実」と認識しているもののほとんどが、
情報やメディアを媒介としたコミュニケーションからもたらされている。
情報は社会的に人間が作り上げた構成物なのだ。
・情報のルート(テレビ、新聞、ウェブなど)によって、
現実だと感じることが変わってくる。
●「学びのコミュニティー」をデザインする
・国語は文字だけでなく、映像や音楽などほかの記号体系にも
懐を開く必要がある。
・現在の社会科では、内容知の習得が重視され、分析的活動にまで
手が回っていない。
「調べ学習」のスキル向上に関しては、個別の教師に任されている。
・デジタル社会のリテラシーに必要な教育を、単独でカバーできる教科、
領域は存在しない。
各教科の横の連携をはかる(合科)が大事だが、それもなしにくい。
調整が難しい。
・学びに必要な情報を探し出すことは、ほぼ全教科で必要になるスキル。
・ワークショップというスタイルを活用することで、
リテラシーに関してもより多様で深い学びを実現することが可能になる。
・「友達の絵本」というワークショップ
編集における「意図」を意識化する。
今の大学生は、記憶する訓練は受けてきているが、
人から話を聞いて構成する経験をほとんどもっていない。
○俺は「営業活動」を通してこの力を身につけてきたのかも。
お客様が言った内容を復唱し、確認する。
・「友達の絵本」というワークショップを成功させるための鍵は
「仮想編集長」という支援者にある。
このような実践をサポートする仕組み(編集に関する知を伝えるNPO)が
必要になってくるだろう。
○これは、日経のHさんが、興味を示しそう。
「編集に関する知」を活かす「ワークショップ」の案
・「湯けむりワークショップ」を通して、参加者は同じ事件を
同じ形式で取材したにも関わらず、各メディアによって違う表現に
なることに驚く。
メディアはなにを載せないかという選択権も持っているのである。
・メディアはそれ自体遊具性をもっており、学習の強い動機になりうるが、
この遊びと学びの両面を含み込んだ社会的実践への参加が必要になってくる。
表現活動はみたり聞いたりしてくれる人がいて初めて成立する活動。
○メディアを使って遊び、学ぶことが、
そのまま社会参加になるような活動。
地域の役に立つような情報発信を行い、
それが地域の大人からほめられるような活動なら。
・学校で教師が教えるのは、評価が安定した「枯れた内容」が中心になる。
学校教育で教える内容は、10年に1回改訂される学習指導要領に
よって決められている。
・実際の研究者が行っているのは、科学的な問題解決活動であるが、
学校で学ばれているのは発見された知識の記憶活動になっている。
・学校を解放し、常に社会から風が吹き込んでくる状態にしておく必要がある。
○寄居の小中学校で、地域のおせっかいやとして、
キャリア教育にからませてもらった。
それでも外の人間が学校に入るのは、やっぱり大変だった。
しかも1度やった後も、こちらから継続的に働きかけないと、
向こうから外に対する働きかけはほとんどない。
遠慮しているのもあるだろうが。校長先生が替わったり、
熱心だった先生が異動になると、とたんに音沙汰がなくなる。
今いる地域でも、少しずつ学校にからんでいきたい。
外側からおせっかいかもしれないが、風穴をあける。
ただ、自分の娘がいっている学校で、娘がいやがる可能性は
将来的にはでてくるかもな。
・学びの場である学校と、コーディネーターである教育プロジェクトや
NPOだけでなく、パートナーになる企業の意識も重要になる。
一時的な寄付に終わらせず、企業側にもメリットがあるという
構造を作らないと、この仕組みは長続きしない。
・民放連プロジェクトでは、送り手側の研修プログラムの一部として
このプロジェクトを位置づけることを試みている。
○そうなんだよなー。企業の従業員が、学校に行って子供達に自分の仕事に
ついて説明したり、ワークショップを行うというのは、とても大きな
教育効果がある。
教えることで学ぶ。しかも大人が子供に。子供から学ぶこと、
目を開かされることも多い。
・二つのコミュニティーの境界での活動。葛藤を上手にコントロールする。
○神田正典さんの本「全脳思考」の物語のパートでも、
この葛藤のマネジメントの話がでていたな。
○この本を含め何冊か「メディアリテラシー」関連の本を読んでいた。
隣の家に、大分の妻の実家から戻った挨拶でおみやげをもっていったら
「関根さん、実はうち今日パソコン買って」ということで、
ネット接続を手伝った。
小6の夏休みの宿題で、自分の好きなものを調べてまとめるというものが
あるらしい。クラスの2/3は、PCをもっているということで、
お隣さんも買ったそうだ。
ネット設定まで手伝い、ネットにつなげる環境まで作ってあげた。
小6の男の子は、「城」について調べたいということで、
検索エンジンの使い方を簡単に教えた。
ちょうど「メディアリテラシー」関連の本を読んでいるときに、
隣の家がPCを買って、ネットにつなげた。シンクロニシティーかも。
ネットにつながる楽しさと怖さ、PCの使い方、も
教えてあげた方がいいのかもしれない。
まず「親がいる場でネットを使わせる」「時間を決める」の二つは、
親が押さえておいた方がよいかも。
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