「状況に埋め込まれた学習~正統的周辺参加」
ジーン・レイブ エティエンヌ・ウェンガー 著
佐伯 胖 訳
○職場での新人指導や学校教育に対して、
今までとは違ったものの見方を与えてくれる本。
(・引用/要約 ○関根の独り言)
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●序文
・学習を、個人の頭の中にではなく、共同参加の過程に位置つけている。
・人間の理解とコミュニケーションが状況に埋め込まれているという性質を
研究する人間科学。
・著者は、学習を命題的知識の獲得と定義するのではなく、学習を特定の
タイプの社会的共同参加という状況の中におく。
・個々の学習者は、ひとまとまりの抽象的な知識の断片を獲得し、
それを後に別の文脈にあてはめるといったことはしない。
○これは、研修でやっていることかもなー。職場での実践という別の文脈への
あてはめは、参加者個々人に期待されている。
・学習者は、正統的周辺参加というゆるやかな条件のもとで実際に仕事の
過程に従事することによって業務を遂行する技能を獲得していくのである。
○新入社員が職場で学んでいく際には、まさにこの正統的周辺参加が
起こっていると言える。ただ、「正統的」と新人が受け止める活動と
なっているかという点はあるかも。
LPPは、新人の学習という点では説明ができる。ただ、教える側の
OJT指導員が「教え方を学ぶ」という点では、LPPは考えにくい。
教える人のコミュニティーに参加し、
他者に教えている先輩を見る機会が少ない?
業務ができるようになるのが「正統的」だとすれば、
他者に教えるというのは「付随的」と言えるのでは。
OJT指導員が教え方を学ぶ際には、LPPという考え方は適用できないかも。
他者への教え方を人はどうやって学ぶのか?
自分が教わってきた経験、書籍からの知識、研修、
試行錯誤(やりながら)、同じ経験をしている同僚との意見交換、
他者への教え方を、人がどう学んでいるのか・・・
・学習は、いわば参加という枠組みで生じる「過程」であり、
個人の頭の中ではないのである。この定義では、学ぶのは「共同体」である。
学習はいわば共同参加者間に分かちもたれているのであり、
ひとりの人間の行為ではない。
・技能的に優れた学習者は、多様な参加領域でさまざまな役割を
演じる能力のようなものを獲得していると見なされる。
・習熟とは、変化している状況に応じた行為のタイミングを含む、
すなわち即興的行為の能力である。
○これはおもしろいなー。
・学習が、業務へのアクセスを増大させることに関連しているとすると、
学習を最大限に生じさせるのは、その業務を遂行してみせることであって、
それについてしゃべることではない。
○やってみせて、やらせてみて。言って聞かせる、よりも。
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●正統的周辺参加
・学習者はいやおうなく実践者の共同体に参加するのであり、
知識や技能の修得には、新参者が共同体の社会文化的実践の
十全的参加(full participation)へと移行していくことが必要だということ。
・徒弟制を通した学習は、正統的周辺参加の問題。
・徒弟たちは、日常作業の中で、ことさら教え込まれたり、試験を受けたり、
機械的なまねごとに終始するといったことがないまま、どうやって技能を
修得するのか。
・「抽象性の力」は全く状況に埋め込まれたものであり、人々の生活の中にあり
それを可能ならしめる文化の中にある。
○「状況に埋め込まれた学習」「状況的学習」の「状況」とは?
何となくわかるけど、他者に説明できるほど、俺自身が理解できていない。
学習者自身がいる環境の中? 仕事を行う場所そのもの? 周囲との関係?
・学習は、この生きられた世界での生成的な社会的実践の欠くことのできない
一部なのである。
・正統的周辺参加というのは、学習を必須の構成要素とする社会的実践への
かかわりを記述する手段として提案されたものである。
・正統的周辺参加を「分析的視座」として記述
○「かかわりを記述する」かかわりを説明する手段としての
「正統的周辺参加」という考え方
世界をどう説明するか
・「周辺的参加」が向かっていくところは、「中心的参加」「完全参加」
ではなく「十全的参加(full partcipation)」
・「周辺性」は積極的な言葉。反意語は「無関係性」「非関与性」
・学習に新鮮な目を向けたかった
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●実践、人、社会的世界
・すべての学習論は、人、世界、およびそれらの関係についての
基本的な仮説に基づいている
・学習に関する従来の説明では、知識が「発見される」にせよ、他人から
「伝達される」にせよ、あるいは他人との「相互作用の中で経験される」にせよ
そのような知識が「内化」する過程を学習とみなしていた。
・知識とはおおむね頭の中(大脳)にあるものとし、個人を分析単位としてきた
・学習を内化とみなすことは、学習を与えられたもの(所与)の吸収であり
あとはそれが伝達によるか同化によるかの問題になるものと解釈されてしまう
○こういう学習に対する今までの考え方とか、先行研究で言われてきたことを
きちんと把握しておかないとなー。
アカデミックな世界に参加できるレベル、スタートラインにたつためにも、
相当量の文献を読まないと、追いつけない。
ただ、あせらず今俺にできることを、一つずつこなしていこう。
いつかは追いつける。そして、いつかは俺独自の視点も出せるはず。
・学習を内化として見るのとは対照的に、学習を実践共同体への
「参加の度合の増加」と見ることは、世界に働きかけている
全人格(whole person)を問題にすることである。
・社会的実践の一側面として、学習は全人格を巻き込む。それは、
社会的共同体への関係付けを意味している。すなわち十全的参加者になること
成員になること、なにがしかの一人前になることを意味している。
・学習を正統的周辺参加と見ることは、学習が単に成員性の条件であるだけでなく
それ自体、成員性の発展的形態であることを意味する。
・新参者の参加の増大は、古参者の交替を意味している。この矛盾は、
正統的周辺参加としての学習には本来的に含まれている。
・学習とは単なる転移や同化のプロセスではない。
・学習、変容、変化というものは、常にお互いに関係づけられている。
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●産婆、仕立屋、操舵手、肉屋、断酒中のアルコール依存者
・学校という土俵に無反省的に引きずり込まれたりしないような状況のもとでの
実践内学習(learning-in-practice)を調べたり、教えこみによる
構造化にもとづく教育ほど徹底的にはその構造が見えにくくなっていない
「教育的」契機を探したりすることが有効であるように思われる。
○学校以外の教育機会
無理に教え込もうとしない。教え込むことが目的でない場。
でも自然に参加者が学んでいる。
新人へのOJTが放置状態になっているとはいっても、
それが一慨にだめとは言えないのかも。そこで自然に学べていたとしたら。
・ユカタンの産婆の徒弟制
・教えること(teaching)は、熟練者になる産婆のアイデンティティにも学習にも
なんら中心的でないように見える。
・産婆の徒弟だとは認められずに、たんなる成長過程の中で、産婆術の実践の
エッセンスを多くの手続き知識とともに吸収していく。
○うちの子供たちも、経営者的な考え方が、自然と身に付くといいなー。
そのためには、ある程度の働きかけ(仕事を手伝わせる)とかは必要になるかな。
身につけさせたい経営者的な考え方とは何か?
ー自己責任、自分で決める、他人のせいにしない
ー考える、未来について考える
ー振り返る、
ー人の話を素直に謙虚に聞く
ーおそれずやってみる、挑戦
ーリスクを予測する、考える
ー上手に学べる
ーあきらめない、ねばりづよく続ける
ー勉強好き、
ー前向き、楽観的
ー他者の強みを知ろうとする、協調
とかかなー。自分にできているとは言えないけど、
こうありたいと思っているって感じかなー。
・ヴァイ族とゴラ族の仕立屋
・それぞれのステップが、いかに前段階が現在の段階に貢献しているかを
考える無言の機会を提供している。この順序づけは重大な失敗経験を最小にする。
・学習は「入口 way-in」と「練習 practice」の2段階に分けられる。
「入口」段階は、観察期間を指す。「練習」段階では、特別のやり方で実行される。
○観察期間の重要性。これは、新人へのOJTでも当てはまるのかも。
放置ということではなく。
・海軍の操舵手の徒弟制
・限定された任務からはじめ、習熟するにつれて更に複雑な業務手順に進む
・肉加工職人の徒弟制
・徒弟制が実践の中の学習を不可避的に促進させるものだと主張している訳ではない。
・円熟した実践のアリーナ(本場)での活動に近づくことを拒否する
ようなやり方で、徒弟たちを未熟練労働につかせてしまうこともある。
・熟練者(親方)たちが、教授的権威主義者として振舞、徒弟たちを
「教え込まれるべき」新人どもとみなして、共同体のそれ自体の再生産の
ための周辺的参加者とみなさない場合もある。
○「教え込まれるべき新人ども」こういう風に考える教え手はいるだろうなー。
・作業場のレイアウトも学習の重要な特質である。徒弟は他の人々を観察したり、
自ら観察されたりして多くのことを学ぶからである。
○新人が入ってきた職場の「席の位置」とかも大事な学習の要素なんだろうなー。
「先輩と席が遠いので話しづらい」という意見が出ることが多いが、それ以外にも
彼らが学ぶことを手助けするような、職場のレイアウトがあるのかもしれない。
少なくとも、指導員のそばに席を設けるぐらいは必要なのかも。
・ひとたび自分の職にはまってしまったならば、作業の全領域を学ぶことは
めったにない。
○新人のうちこそ、全体を学べるよいチャンスなのかも。
・断酒中のアルコール依存者の徒弟制
・複雑さと活動範囲が増大していく仕事の断片に部分的に参加する
・人々が変わるのは、行動が変わるだけのことではない。
それはアイデンティティーの変容である。世界でもものごとの見方、振舞方が
変容するということ。
それを促進させる一つの重要な道具立ては、パーソナルストーリーである。
○その人自身の物語を、他者に語ることによって、語り手自身の変容を促す?
・徒弟制と状況的学習 あらたな検討課題
・学習者が学習の重要な資源に対してアクセスできるかどうかを問題視。
・十全的参加者は「ああいう人達になること」が具体化した到達点。
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●実践共同体における正統的周辺参加
・前章の5つのケースでは、観察できるような教える行為がほとんどない。
・共同体の実践は、最も広い意味での潜在的な「カリキュラム」-新参者が
正統的周辺でのアクセスによって学習できることーを作り出す。
○「アクセス」というのがカギになるのかも。
アクセスできる環境におかれているのか、そうでないのかが大きい?
・学習には強烈な目標がある。学習者は、周辺的な参加者として、全体の構図が
どういうことについてなのか、またそこではどんなことを学ぶべきなのかに
ついての自分の考えを発展させることができる。
・親方-徒弟関係を、「脱中心的」に見ることから、熟練というものが親方の中に
あるわけではなく、親方がその一部となっている実践共同体の組織の中にある。
・伝統的な知見では、徒弟は「観察と模倣」により実践の「特技」を学ぶのだと
された。しかし、この考え方は間違っている。
・正統的な周辺性に十分長くいることで、学習者は実践の文化を自分のものにする
機会に恵まれる。
○「正統的な」周辺性に、新人が置かれているのかどうか。
全体が見れる状況にアクセスできるのかどうか、が大事ということかな。
・学習のカリキュラムは、本質的に状況に埋め込まれたものである。それは勝手な
教え込み的な言葉で操作されるものではない。
・正統的周辺参加へのカギは、実践共同体と、その成員性に伴う全てに対する
新参者のアクセスにある。
・肉やの熟練者は、彼らの徒弟を活動に周辺的たらしめるのではなく、むしろ
それれから遠ざける仕事に閉じ込めていた。
○これが、正統的周辺参加が上手くいかないケースなんだろうな。
アクセスを拒否する。
・学校の子供たちは、正統的に周辺的である。しかし、社会的世界には
参加しないようにされているのである。
○子供が、社会に「参加」できるようにする。
-お手伝いをさせる -仕事を手伝わせる -地域活動に参加させる
とかも必要なのかも。学校に閉じ込めておくだけでは、参加はできない?
・学校でうまく「やっていく」ことを学ぶことが、学校が教えることの主要な
部分になっている。
○学校という閉じた世界
-時間割通りに、生活が進んでいく(与えられたもの)
-同年代の子供たちに囲まれ
-大人は1人、指示する人
この世界で「上手くやっていく」。これは特に友達関係であるかも。
学校の外には、違う世界が広がっているのに、中にいると、この世界だけと
思ってしまう。
・コピー機の修理工は「戦争物語」をお互いに話す。新参者は、このプロセスで
どうやって修理をするかを学ぶと同時に「戦争物語」を話すスキルも学び、
それで実践共同体での正統的参加者となる。
・語りから学ぶのではなく、正統的周辺参加への鍵として語ることを学ぶ。
○言葉で教えられて学ぶというよりも、参加するための手段として本人たちが語る?
・正統的に周辺的なやり方で参加できるということは、新参者が円熟した実践の
本場に広くアクセスできることを意味している。
・参加の価値のもっと深い意味は、共同体の一部に「なる」ということにある。
・十全的参加者が「新参者はやがて古参者になること」によって、入れ替えられる。
世代をまたがって連続性を達成する手段としての正統的周辺参加と、
置き換えとの間には緊張関係、コンフリクトがある。これは根本的なものであり
基本的矛盾である。
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●結論
・状況的学習を、意味を獲得する参加の軌道の中で捉える。この軌道はそれ自体が、
社会的実践に埋め込まれていなければならない。
・状況的学習活動は、実践共同体における正統的周辺参加となった。
・新参者の十全的参加者になりたいという欲求によって動機づけられる。
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●解説 認知という実践 「状況的学習」への正統的で周辺的なコメンタール
・この書は、認知科学と社会科学といういままであまり交わることのなかった
二つの領域に、極めて錯綜した形で橋渡しをし、それぞれの領域のジャーゴンを
独特な形でずらすことにより、微妙な、しかし新しい理論的ゲシュタルトを構成。
・行動主義は、外的に観察可能が行動に関心を集中し、基本的に刺激-反応図式で
全てを説明しようとする
・認知主義は、人間の内部構造の豊かさに注目し、それを特にコンピューターの
情報処理に見立てて積極的にモデル化しようとする。
・意識派(現象学主義)は、人間の意識的経験、主観的な肌触り(qualia)や
志向性といった観点を強調し、前者2つの双方を批判する。
・社会科学(特に文化人類学、社会学)の主張のかなりの部分が、行動主義に入る?
・ドレイファスのような反AI主義者は、認知研究が本当の熟練の極致のレベル
までは分析するに到らず、むしろ彼の言う熟練の5段階のうちの「上級者レベル」
(そこでは状況を全体的に判断することが可能になる)で止まっており、本当の
エキスパートレベルに達すると、そうした「状況判断」といったものも
必要なくなり、ほとんど自動的に状況の変化に対処すると主張している。
・ギブソンは、熟練の最も高いレベルに達すると、ある種の道具や状況との一体感
のようなものを経験でき、そこでは「情報処理」といったものは必要ないと主張。
・プルデューとパスロンの「再生産」という本と、本書を比較するとよい。
「再生産」では、徒弟的認知と学校のシステムの対立が、正統的文化の押し付けと
それによる非支配階級の実践的な知の排除という形で露骨に論じられている。
○この本も読んでみよう。
・人間=コンピューターというメタファーの有効期限が切れつつある。
認知科学のおかげで、我々はいかにコンピューターと異なるかがはっきりしてきた。
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●訳者あとがき
・学習と呼んできたことは、特定の「与えられた」教科内容を、特定の子供が
いかにして理解に達するかということに焦点が置かれたものであった。
・教育の問題を本気で考えると「分かって何になる」「できたからって、それが
どうした」という問題にぶつかる。
・本書は「考える糸口」を提供している。
1)LPPは、学習を教育とは独立の営みとみなしている。
学習はまさしく学習者自身の営みであって、教師や教室や教材が、学習を
「もたらしている」とか「方向づけている」のではない。
2)LPPでは学習を社会的実践の一部であるとする。つまり学習とは「学びとる」
とか「身につける」というよりも「世の中のためになること、いわば仕事をやる」
ことなのだという。しかも個人の営みではなく、当人が属したいと願う共同体が
想定されているということである。
3)LPPでは学習を「参加」と捉える。学習によって人は何かに貢献する。
学校や教室は、子供が社会や文化の中にある学びの実践共同体にアクセスしていく
「橋渡し」の場とみなすべき。
4)LPPでは学習はアイデンティティー形成過程であるとする。
学習とは「何者かになっていく」という自分づくり。
追及していくべき「世界」のひろがりの実感とそれへの参加意識が芽生えている。
5)LPPでは学習とは、共同体の再生産、変容、変化のサイクルの中にあるとする。
全ての人は、つねに「将来の共同体」に向けての新参者である。
「古顔」に安住している人は、可能性を自ら断っているにすぎない。
6)LPPでは学習をコントロールするのは、実践へのアクセスであるとする。
教材や教師の役割がここにあるとすれば、学習者にいかに本物の円熟した
実践の本場(アリーナ)を当初から垣間見せて、そこへ「行ける」実感をもたせ、
またたとえ周辺的であっても、そこにつながっているということが分かるような
実践の手立てを講じるということである。
○佐伯先生の話は、やっぱり刺激的。
「学びのドーナッツ論」とLPPのつながり。
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