「デザインド・リアリティー ~半径300mの文化心理学」
有元 典文, 岡部 大介
○人の主体性や自律性に対する考え方が、ガラリと崩される本。
(・引用/要約 ○関根の独り言)
●はじめに
・「誰として誰に」は、学問の領域において問われることが少ない。
客観的で中立的な「研究者」という超越的な視点から、対象を描いてしまう。
・本書では「現実」があるがままにただ与えられたものではなく、
我々自身の長い歴史をかけた文化的洗練で「作られ」作り替えられつつ
あるものであることを示したい。
・あるものに別の意味や役割や機能や見えを与えることを、
「デザイン」という言葉で表したい。
・「なぜ勉強するの?」と問われたら、世界を維持し、デザインする仕事を
一緒に受け持ってもらうためだ伝えていきたい。
○こういう答えをできたら、壮大だよなー。日本人の文化を受け取り、
日本人になっていく。かつそこから自分たちで世界を作り出していく。
そのために勉強が必要。何の勉強が? その社会で重視されていること
(規範、立ち居振る舞い)いずれは必要になるとその社会で思われていること
(授業)、その社会に参加していくために必要な知識、技術、態度とかかなー。
●社会文化的サイボーグ 人工物とともに (コーヒーショップ)
・行為遂行を、徒手空拳ではなく、人工物(道具)を最大限活用することで行う。
学校では、人工物を与えず自力で記憶させたり、計算させたりと、
かえって学校の方が時代に逆行し、人間の本質に背いているともいえる。
○確かにそうかも。人間は道具を使う動物だとするならば、
道具を使わせずに勉強をさせるのは酷なのかも。教科書、ノート、筆記用具
ぐらいの道具しか使っていない。計算機、辞書、PC(ネット・文書記録)等
の道具を使った方がより学びやすいのかも。
学校だと、基礎的な計算や漢字の書取は、子供たちに暗算や暗記でさせるなー。
でもある程度は、道具なしでできないと、実際の生活では不便だよな。
暗記力が高いと、学校では評価されるし。
・自分の頭の中の記憶だけを頼るのではなく、頭の外の道具を頼った
社会文化的サイボーグとして、コーヒーショップの店員は機能し、
多様な注文に対応する。
・道具に頼ることで、頭にかかる認知的負荷を軽減する。
・人工物との組み合わせの中に記憶が保持される。こういう当たり前の工夫が
学校では停止させられている。そのことで、学校は何を試しているのか?
・心理学では、人の行為遂行能力を、人の「こころの中」に探してきた。
一方でロシアの心理学者ヴィゴッキーを始祖とする状況的認知研究では、
人の行為遂行能力を「人と人工物のセット」としてとらえた。
・学校では、個人のひとりぼっちの能力にスポットライトをあてるが、
そのことは社会的動物としてのやり方とは異なった、つまり人間としての
特質を十分に活用することのない偏った認知のあり方といってよい。
●デザインされた水 (焼き肉屋のオーダーコール)
・人工物を媒介して世界をみる。
・社会を引き継ぐことは世界の見え方を引き継ぐことである。
・多くの人工物を用いて仕事を行っている
○現場でのOJTを上手く行うために、人工物を使えないか?
調査→開発
●フィールドに向かう (ケータイ)
・新しい技術=人工物は、生活の慣習を根底から変えてしまう場合がある。
(携帯やプリクラ)
・友達であることを示すための手続きを実践する
(ケータイメールを行うことで)
・短いつぶやきの連鎖によって生み出される「ケータイ空間」とも呼ぶべき場では
常に一緒にいるかのような感覚(場の共有感)を経験している。
○この辺は、30代後半の俺には分からないところだな。
きっと娘たちが年頃になったら、ケータイにずっと向かっている姿を見ることに
なるのだろう。心理的に抵抗感はあるが。
あるいは、その頃(10年後)には、また違った人工物を介して、彼女たちは
友達関係作りをしているのかもしれない。
そういえば、なんで心理的抵抗感を感じるのだろう。
きっと「目の前にいるあなたより、ケータイの向こうの相手の方が
大事ですよ」ということを、まざまざと見せつけられるからかも。
部屋にこもって電話をしてくれているなら、諦めもつくのかも。
・ケータイカメラをもったことで、フォトジャーナリストの欲望が喚起される
道具が新しい欲求を生み出した例。
●デザインされた動機 (プリクラ)
・活動理論 activity theory は、ロシアのヴィゴッキーに端を発するソビエト
心理学の流れをくむ。この理論の基本的前提は、人間が道具を用いて環境と
向き合うということである。
・現実は、具体的なモノ、コトによってデザインされている。そこでデザイン
されているのは、世界の見えの理解(sense-making)そのものである。
・プリクラによって、社会関係(特に友人関係)や、自分の社会的ステイタスを
可視化しようとしている。友人関係をマネジメントするツール。
・ケータイもプリクラも、設計者の意図を越えた独特の意味が構築されて
きている。
・高校生は、未成熟な存在であることを前提に語られることが多いが、彼らは、
社会関係の構築や維持に関して、道具を用いた洗練された緻密な特有の
「スキル」を使用しているのである。
・友人との遊びの記憶が、プリクラを介して保管されている
・プリクラの撮影、共有という実践は、友人関係の深度を示す装置ともなる。
・友情を実践する手続きをとらなければ、友情を示すことができない。
○その社会で認められている手続き(一緒に遊ぶ、プリクラを共有する)を
踏まなければ、どんなに友情を感じていたとしても、相手にそれを示せない。
●空っぽの世界を意味で満たす (コスプレ)
・フィールドとは、意味の交渉のプロセスである。
・佐伯による「文化的実践」の定義。人間は自分たちの生活を
「より良くしたい」と願うものと前提。そのために4つの活動を行う。
1)「よい」とは本来どういうことなのか探る(価値の発見)
2)「よい」とする価値を共有しようとする(価値の共有)
3)「よい」とされるものごとを作り出す(価値の生産)
4)「よい」とされるものごとを多く残したり広めたりする技術を開発する
(価値の普及)
・人間の文化は後戻りしない。今まで築き上げたものの上に次代を築いている。
・実践をする人々に仲間入りし「初心者」になること。
○まさに今の俺だな。アカデミックな世界に参加し、初心者にまずなる。
・調査対象者にどのようにアクセス可能かということは、同時にその人が参与する
コミュニティーがどのような特徴をもったコミュニティーであるかを
不可避に示す
○これは佐藤先生の「フィールドワーク」でもふれられていたなー。
・正統的周辺参加論により、学習に必須だと思われていたテキスト、
明確な教授行為、評価ツールがなくても、実践の中で誰もが一人前の
メンバーになれることが分かった。
・全体の中の一部(正統的)観察(周辺参加)
・新参者単独では困難なコミュニティーの参加であるが、それも適切な熟達者や
仲間の存在があれば実現される。新参者は、熟達者の多少強引な導きに、
ある意味服従しながらも、その熟達者ごしにコミュニティーの実践の特徴を
みることができる。
○こういうコミュニティーにいざなってくれる熟達者や仲間は、
なぜ、こうした行動をとってくれるのか?
「いざなう人」になるメリットは?
仲間を増やしたいという欲求?
仲間を連れてこられることで得られるコミュニティーからの評価?
困っている新参者を助けたいという欲求?
・スティグマ(負のレッテル)回避のための文化的実践を、
コスプレイヤーは志向。
・学校での学習とは違い「参加」による学習は、
1)ほぼ間違いなく習得する
2)しかも苦労を伴わない 当たり前に達成されている
・新参者は共同体に「正統的」に、そして「周辺的」に参加している。
そうした「参加」が学習の決定的な条件。
○「その場にいさせてもらえる」ことが大きい。
「参加」させてもらえるかどうか。共同体に受け入れてもらえるかどうか。
そこが大事なのかも。
・状況の中での学習においては「誰」として「何のために」その技能を用いるかが
明示するまでもなく極めて明確。
その実践の学びは何より「幸せな学び」といえる
ここが学校での学びとの違い。
○自分が属すべき共同体を早くに知り、そこに早い段階から
参加させてもらえれば、確かに幸せなのかも。
ただ、それ以外の世界を知れないという面はあるかもしれないが。
学校は、まだ属すべき共同体を分かっていない、
決め切れていない人達が集う場?
だから、学びがつらい?
●文化と衝動 (ヤオイ)
・腐女子が、原作のアニメや漫画を「ヤオイ読み」として再構築することも
またデザインと考えることができる。
・初めて同人誌を手にした年齢は、11~12歳が大半。この時期が一つの
臨界期(学習に重要な時期)と見える。
○うちの娘たちが、同人誌をもっていることが分かったら、
しかもホモの話だったら、やっぱりショックを受けるかも。
でも、そういうもの、と思っておけば、ショックは和らぐかな。
あとは、やっぱり11~12歳ごろには、
プライベートな空間をほしがるかもな。
・腐女子は、単に原作を消費していない。そこでは意図されていない
物語を再構築している。
●作られた「童貞」を生きる (童貞)
・私たちの行為は、私たちがこれまで作り上げてきた様々な人工物とともに
成立している。
・
1920年代の童貞は、学生や知識人の間で「尊い」ものとされていた。
童貞が「恥ずかしい」と認識されるようになったのは最近のこと。
・童貞が発達課題のように認識された。
・心理学者のハヴィガーストによって提唱された発達課題の理論によれば、
誕生から死までの過程は、人がある発達段階から次の発達段階へ、各段階で
出会った問題を解決しながら進んでいくことから成立しているとする。
○未解決の問題があれば、段階を進めないということ?
●現実をデザインする
・デザインすることは、まわりの世界を「人工物化」すること。
・授業とは極端に言えば授業にのれる子だけを集めている仲間作りみたい
なものといえる。最大多数の最大幸福のジレンマの教育バージョンと言ってよい。
つまり同時に、最小少数の最大不幸が発生することを意味する。
・授業のデザインは、好みの仲間作りの側面が強くある。ふるい落としているもの
の上に成り立つことを意識し続けるしかない。
○これは、集合研修でもあるよなー。100%全員の満足を得ることはできない。
80%で十分という発言を、以前講師向けセミナーで行ったら、反発を受けた。
「自分は100%全員を目指す」という講師がいた。
それも考え方だろう。
俺の力不足かもしれないが、俺はあえて「100%は目指さない」と考える。
おこがましいし、やはり人間(他者)に対する働きかけが、
こちらの思うどおり進むとは考えられない。
・こうして教師は問い続けるようになる。結局、教師は教師らしく、
学生は学生らしくきめられた役割をふるまうのがよいのかと。
○研修も一緒かも。時間内、それらしい振る舞い(教育企画者から
期待されている言動)を講師と受講者がお互いしあって、終わるケース。
・私たちは、デザインされた現実を生きている。
●ふり返りガイデッド・ツアー
・生物によって持てるセンサーの種類と性能は異なる。
・世界は、生物のセンサーの種類と性能に相対的に顕現する。
いわば主体的環境、環世界と呼べるもの。
・犬になって匂いで構成される世界を想像する。
・知覚とは、解釈すること。
・現実世界は、社会文化的にデザインされている。
生の現実というのはない。
○主観、センサーをもつ人間がいるから、世界は存在する?
作られた世界に、作られてきた人間?
・私たちが目にし経験する事実は、社会文化の反映である。
ナチュラリゼーションという態度は、自然を過大視しすぎ、同時に人間の
現実をデザインする力を過小に見積もりすぎている。
・ネット上のテキストでのやりとりでは、性別という区別は
なくなる可能性がある。
○確かに、「ネカマ」とか、なりすましもあるしなー。
メールのやりとりだと、署名欄の名前で判断しようとすることもある。
・世界の見え方を伝承するための特別な実践を教育と呼ぶ。
・なぜ学ばなければならないのか、それは人間を維持するためである。
・コミュニティーが私たちを教え導く。学校や教科書とは違うやり方で
私たちを教化する。アドバイスのような直接教授だけでなく、無視、
無関心、議論、混乱、停止、失敗、ためいき、失跡などなどをもとに。
○ため息は確かにあるよなー。
・日本人らしさは、遺伝ではなく後天的な実践
・実践の動機は、社会の中に埋め込まれている。
では、私たちの主体性はどこにあるのか?
○その社会に受け入れてもらいたいという動機で、
私たちは日々の実践を行う?
としたら、私たちの主体性は、私たちの中にはない? 外にある?
●こころのありか ~中枢コントロールと世界コントロール
・17世紀、デカルトは、精神と肉体を異なるカテゴリとして峻別し、
現代の心理学の系譜につらなる物心二元論を提唱した。
19世紀後半、心理学が成立し、精神こそが私たちの行為をコントロールする
中枢であるという考え方が、現代心理学の大前提となった。
・17世紀、スピノザは、精神と肉体の不可分性、合一性を主張し、
汎神論を前提とした。
人間は知的で複雑な作業をするが、それも実は必然的。
スピノザは、世界を必然性のカタマリである「神」として設定する。
精神の自由な決意で行為すると信じているものは
「目をあけながら夢を見ている」と結論付けている。
人間の自由意思がコントロールしているのは誤認だと断定。
○これはショッキングな考え方だよなー。この本、刺激的。
自分で決めるというよりも、いつの間にか決めさせられているということか。
でも確かに、周囲との関係、そのタイミング、出来事、とか
自分ではどうしようもない外部要因で、決断している時もあるなー。
俺が独立した時もそうだった。
・人間の行為の原因を、皮膚の内側にある主体性に基づくものと記述する
流儀を「中枢コントロール説」と呼べば、
スピノザの必然性と衝動にもとづく行為、行為者の外部が行為を
コントロールすると記述する流儀を「世界コントロール説」と呼ぶのがふさわしい。
・スピノザの理論は、社会文化的アプローチ研究、状況的学習論や活動理論と
ぴったり添う。それらは、私たちの主体性や自律性を、社会や文化の諸要素との
相互作用の表れとして記述するから。
○企業内教育で「自律型人材の育成」「主体性の発揮」などが言われるが、
これらは、主に、その個人の内面から「自律性」「主体性」を絞り出
してほしい、というイメージがある。
自律性、主体性を発揮できないのは「依存的」「消極的」な本人の問題と
捉えられている?
だが、自律性や主体性が、周囲との相互作用の結果であるならば、
また違ったものの見方が必要になるのかも。
その人個人のやる気をうんぬんすれば、すむ問題ではないのかも。
・AIは例外なく、フォン・ノイマン型、つまり外界の情報を知覚し(入力)、
外界の表象を作り推論し(処理)、行為に移る(出力)ように設計されてきた。
・ブルックスは、中枢がコントロールする構造をあえて捨てることで、ロボットに
知性を与えられると主張し、実際に多くの自律的なロボットを生み出してきた。
センサーとモーターでごみを拾う行為に徹したおかげで、主体の悩み
(フォン・ノイマン問題)がないロボット。
ブルックスのロボットによって、外部世界はロボットのセンサーとモーターに
よって知覚されるだけの単純なもの。
○これもショッキング。
考えないことによって、外部環境に対して反応することで、自律的になれる
ということ?
・私たちの向き合っている世界は、無秩序な混乱ではなく、人為的な秩序。
つまり私たちも、ブルックスのロボットと同じ。
・スポーツの達人たちは、世界を単純にするために猛特訓をしている。
主体性の悩みをなくし、イマジネールな自我をなくし、フォンノイマン問題を
回避して、スポーツ世界を単純化するために。
・人間にとっての世界、現実は実は社会文化的なナラティブ、
物語である可能性がある。
○これもショック。
人にとって、生の、手を加えられていない世界、現実はない、ということか。
そこに既に属している人たちが作った、彼らが語る世界の中にいるということか。
全く、人がいない環境で生まれ育った子供にとって世界は、どう見えるのか?
人間のセンサーを使いながら、動物と同じように世界をとらえるのか?
・ブルーナーらは、スキャフォールディング(足場かけ)を、学習者単独では
できない課題を、親や先生、仲間など、より能力のある他者が援助し、実行可能
にする工夫と定義した。
・世界の必然性を自分の自由意志と誤認することを、スピノザは「目を開けてみる夢」
だといった。では、夢から覚めると何が見えるのか?そこに何があるのか?
夢から覚めても、現実の世界は無い。混乱、無秩序そのものである。
○マトリックスの世界観みたいな感じなのかなー。
・私たちは動物とは違い与えられた現実をそのまま生きてこなかった。
世界を自分の好みに合わせてあつらえてきた。つまり世界の見え方をデザインして
きたのである。
・私たちは、動物たちのように安定した世界に住み損ねてしまった。
○だから、人は不必要に悩むのかな。不安を感じてしまうのか。
その一方、世界をデザインしなおす、作りかえることができるということか。
しかし、世界をデザインしなおしたいという欲求も、個人の内面というよりも、
外部からの指示?なのかな。
○この本、面白いなー。一番最後の章に向けて、一気に来た感じ。
(東大 中原先生のレビュー
http://www.nakahara-lab.net/blog/2008/12/post_1393.html )
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