「多元化する能力と日本社会
―ハイパー・メリトクラシー化のなかで」
本田 由紀
○子を持つ親として怖くなる。専門性がカギ。
(・引用/要約 ○関根の独り言)
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●現代社会で求められる「能力」
・何を目標とし、どのような努力を重ねてゆけば「成功」にたどりつけるかに
ついて、共有されたセオリーはぼやけつつある。
・「あらかじめ決められたレール」そんなもののリアリティは既に失われた
○そう言われればそうだよなー。7~80年代の子供時代、例えばTVドラマとか
だと「あらかじめ決められたレール」に反発する話とか多かったような気がする。
長渕剛の「家族ゲーム」だったけ? 印象にのこってるなー。
・更に昔 江戸時代?:属性主義(生まれや身分)
アリトクラシ―(貴族による統治と支配)
一昔前 近代社会:業績主義、産業社会、配置しなおす仕組み「学校教育制度」
メリトクラシー(業績主義を社会的位置づけのルールとする社会)
第二次産業(耐久消費財の大量生産)
現代 ポスト近代社会:情報化と消費化、第三次産業(サービス)
ハイパーメリトクラシー(むき出しの苛烈な業績主義)
・メリトクラシーの極限形態が日本社会。競争と不可分。
・「近代社会」のメリトクラシー下では、何をめぐって競争し、何を目指して努力
すればよいかについての指針が人々に明示されていた。
・「努力」が少ないものほど「自信」をもつという傾向が顕著化
○これはドゥエックさんの本で、アメリカの事例としても出ていたなー。
・近代型能力:基礎学力、標準性、知識量、知的操作の速度、共通尺度で比較可能、
順応性、協調性、同質性
ポスト近代型能力:生きる力、多様性、新奇性、意欲、創造性、個性、個別性、
能動性、ネットワーク形成力、交渉力
・受験勉強に代表されるような知識の暗記など「近代型能力」を身につけるための
ノウハウというものが存在し、それを的確に踏襲すれば、多くの者がそれを
習得することが可能であった。
・メリトクラシーの指標としての教育達成に加えて「ポスト近代型能力」が、
これまでよりはるかに明示的な形で要請されるようになってきている。
○これはあるかもなー。特に就職活動時。
「近代型能力」はある前提で「ポスト近代型能力」がある人材がほしいと、
企業は建前的には言っているよう。
実際に採用しているのは「近代型能力」にたけた人材が大多数?
・雇用する側は、働く機会の提供をめぐる支配力を増大させ、学校教育が証明する
「業績」以外の不透明な諸要素(ポスト近代型能力)に基づく選抜をほしいままに
行うようになってきたのである。
・ハイパーメリトクラシーの母体である「ポスト近代化社会」は、社会に共有された
「大きな物語」の終焉や、価値観の多様化、個別化をその重要な特徴としている。
○皆が信じてきた「大きな物語」例えば、偏差値が高い有名大学を出れば、
一流企業に入れて、それで人生は安泰といったようなものかな。
・低年齢の子供の中にすらハイパーメリトクラシーは浸透している。
彼らにとってのそれは「序列づけ」(人気のあるなし)や「生活の質」(明るく
楽しい日々を送れるか)を決定づける基準として立ち現われていると考えられる。
○これは怖いなー。でも思い当たるところはあるな。
俺らが小学校時代から既にこういう兆候はあったのでは。
(70年代後半~80年代)
・独創的な発想、視野の広さ、コミュニケーション能力、そういうものが求めれる
時代には、ガリ勉人間の価値は下がる。
・ハイパーメリトクラシーは、人間の全人格におよぶ様々な側面を不断に評価の
まなざしにさらそうとする働きをもっている。
・ポスト近代型能力の形成は、個々人の幼時からの日常的な生育環境としての
家庭の質的なあり方に大きく左右されると考えられる。
○これは怖いよなー。3人の子を持つ親として。家庭の在り方次第と言われると。
・ハイパーメリトクラシーは、個人の尊厳、社会的不平等という点で大きな問題を
はらんでいる。
・社会が個人を裸にし、そのむき出しの柔らかい存在の全てを動員し活用しようと
いう状況。
社会にさらされ吸い取られかねない「個人」の領域をいかに確保するか、
「鎧」をきることができるか、真剣に議論する必要がある。
・どのような家庭に生まれおちるかによって個々人が社会を生き抜いていく上での
有利、不利にあからさまな格差が生じることになる。
・ハイパーメリトクラシーに抗う別種の能力原理として「専門性」を取り上げたい。
ここでいう「専門性」とは、ある程度輪郭の明瞭な分野に関する体系的な知識と
スキルを意味している。しかもそれはきわめて狭い範囲でかつ固定的なものでは
なく、他分野への応用可能性と時間的な更新、発展可能性に開かれたものとして
想定している。
・ハイパーメリトクラシーという見方そのものは、社会全体で立ち向かうべき重要な
課題としてしっかり受け止めてもらいたいと思う。
○こうやって受け止めている人は、どのくらいいるんだろう。
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●ハイパー・メリトクラシーの大合唱
・「言説」は、一方では現実を映し出したものであり、他方では現実を更に
特定の方向に進める働きをもっている。
・90年代以降、経済界の掲げる人材像は、主体性や独創性、意欲や
コミュニケーション能力、思考力などの「ポスト近代型能力」であった。
○ここに出てきた「人材像」はもっともだなー、と思えるものばかりだった。
こういう人材に来てほしい、働いてほしい、と思うのは当然と思える。
・現代日本の教育政策の起点となっているのは、1984年~1987年の
臨時教育審議会である。臨教審は「個性重視の原則」に基づく「第三の教育
改革」の基本方針を最終答申に示した。
その後の教育行政は、臨教審の考えを概して受入れ、それに即した方向を
一貫してたどってきた。
・「新学力観」すなわち知識の詰め込みよりも子供の自発的な活動や体験を重視し
「指導ではなく支援」を重んじる教育理念、教育方法として注目を集め、
社会全般や教育現場に大きな波紋を呼び起こすことになった。
・1996年の中教審第一次答申が、1996年の「学習指導要領」(3割削減や
総合的な学習の時間の新設)のベースとなった。
・教育界の「生きる力」言説と経済界の「人材」提言の相似性は明らか。
○ここに出てきた「生きる力」の内容も、もっともだよなー。自分の子供にも
こういう力を身につけさせたいなーと思わせるもの。反対できない。
・1990年代後半の「学力低下」論争と「ゆとり教育批判」を経て、
「生きる力」から「人間力」という新たなキャッチフレーズが
用いられるようになった。
・社会の中枢に位置するエージェントによって、くり返したたみかけるように
ハイパーメリトクラシー言説が生産されてきたのが、90年代以降の日本社会。
・2003年「学力は家庭で伸びる」の著者である陰山英男は「見える学力、
見えない学力」(1981)の岸本裕史の直系の弟子でもある。
○岸本先生の本は、1社目の学習教材の訪問販売会社にいた時の説得材料として
使っていたなー。家庭での学習環境づくり。
・家庭における「ポスト近代型能力」の育成方法に関する様々な言説が、大衆向け
の媒体に日常的に登場するようになっている。
○ここで出てくることも、なるほど、もっともだと思える。家庭で実践しようと
思わせるものが多い。
ここが、既に批判的に考えることをせず、言説を受け入れてしまっている状態
なのか。
・着々と進行するハイパーメリトクラシー化の中で自衛する手段としては、家庭で
親が綿密な配慮のもとに子供の「自主性」などのポスト近代型能力をつけてやる
ということがほぼ唯一の解となっているのが日本社会の現状。
○これは考えてみると怖いよなー。それができる家庭ばかりではない。
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●「がんばる子ども」の作り方
・「閉じた努力」=与えられた目標に向かって反復練習などを通じて自身の
単線的な向上を遂げること
・「開かれた努力」=多くの他者からなる環境の中での自分の位置づけを調整、
模索しながら貫くような態度 高度な努力
・「努力」を「勉強」と同一視し、しかも勉強時間という行動の「量」として
計測しようとすることは、旧式の発想を抜け切れていないといえる。
・「キレる」若者の「平静さ」
それは「感情を否応なく波立たせ苛立たせる環境からの圧力に対して、
できるだけ平気でいられるよう努力すること」から生まれている。
・なんとか平気でいようとし続ける激しい努力としての「感情のしまいこみ」
○これは、そうなのかもなー。
情報が多くなったからなのか。
なるだけ感情を表に出さないよう、
クールにちょっと茶化すような形で、相対する。
・自分のあり方を調整し維持するという自己調整面での「努力」
○これはきついよなー。
しかも学校という逃げられない人間関係の渦の中に閉じ込められていたとしたら。
小さいうちはなるべく身体を使って遊ばせたい。
困った時のよりどころを作ってあげられたらなー。
身体性、学校以外の友達、家族、
・努力を「行動」とみなすとき、それをするかしないかは個々人の自己責任に帰す。
努力を「能力」とみなすと、その分布が不平等であることはあり得る。
・子供たちの「がんばり」や「努力」の中身は、他者と競うことではなく、自分が
選択したものや自分の考えを貫き通すことへと徐々に比重を移しているのでは。
・子供が「自分は頑張ることのできる人間だ」と感じるためには、家族との密な
コミュニケーションや親から期待されているという実感が、ますます必要。
家族が子供に「勉強しなさい」ということは、マイナスの影響がある。
○これも気をつけないとなー。
過信ではなく、自信。自分を信じる力。自分なら乗り越えられる、やれる、
という気持をもってほしいなー。
ただ、俺自身がそう思えるようになったのは、正直いって20代後半ぐらいかも。
ある程度仕事ができるようになって、いくつかの成功体験を積んだ後かもなー。
小中学校での野球での補欠、高校時代の演劇部での才能の無さ。
自分は「これができる!」「これが得意」みたいなものが無かったのかも。
アメリカで英語学校に入り、短大にいったあたりから、学ぶことそのものが
楽しくなり、しかも「結構得意かも」と思えたのかもなー。
自分の子供には何かより所となるような「自分を信じる力」をもってほしいなー。
それはやっぱりこれから波にもまれて行くことがわかっているからだろうな。
・「人を楽しくさせることが上手」なことも「がんばり」の一側面なのである。
○次女はこういうの得意かも。
・子供はかつてと比べて「がんばらなくなった」訳ではない。「がんばる」対象が
変化し多様化しているのだ。
・日ごろからの親子の密な会話や親からの高い期待、子供に身体化された生活習慣など
の一朝一夕には成立しない家庭の質的なあり方が、子供が「開かれた努力」を
遂行する「能力」を持てるかどうかを決定的に左右しているのである。
○これは怖いよなー。
大人になってこの事実を知り、自分は「開かれた努力」ができていない、
その責は自分の家庭にある、なんて思っても、きついよなー。
・「詰め込み」的な旧式な授業よりは「新学力観」に近い授業の方が、子供の
「努力」に対してプラスの関連が現れる。
○これはちょっと救いかも
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●高校生の「対人能力」
・メリトクラシーの凝縮としての日本の高校教育。
・日本の高校教育は、全体が壮大な選抜、配分装置として機能してきた。
その特徴は、高校間に細かく輪切りにされた階層構造が成立していたこと。
○偏差値による かな。
・「わずかな偏差値の違いで学校が総序列化されている」
・属する高校によって別々の「走路 トラック」が用意され、個々の走路に応じた
生徒の進路分化を「トラッキング」と呼んだ。
・高校生にとっての「勉強」や「学校」のもつ意味が希薄化している。
(79年と97年の比較調査による)
・高校そのものの重要性が低下し、家庭の影響力が顕在化した。
・日本の高校生にとって学校は知識習得という「近代型能力」獲得の場というよりも、
「自由な生活を楽しむところ」とみなされている。
・親の階層的な特性が家庭生活全体に浸透し、それを通じて子が自然発生的に
影響を受けている。
○これはそうだろうけど、怖いよなー。うちはどうだろう。
親の自分も本を読んだり、勉強したりしている様子は示せているとは思うけど。
・現代の高校生の生活の中では、メリトクラシー的な「勉強」や「知識の取得」の
圧力が低下した代わりに、ハイパーメリトクラシー的なポスト近代型能力の一部
としての「対人能力」がより大きなエネルギーを割くべきテーマとして浮上している
・土井によれば、子供たちは周囲の身近な人間(親密圏)から「個性的な自分」を
常に承認してもらうことを必要とし、そうした関係を破綻させないために相手への
繊細な配慮を払うようになっている。
しかし逆に見知らぬ他人(公共圏)に対しては全く無関心で傍若無人な態度をとる
○これはその通りかも。こう言われると自分が見ていることも説明できる。
公共圏での傍若無人さは、普段の繊細なやりとりの疲れから出てきているのかも。
そう思うと、見る目も優しくなるのかもなー。
・若者のコミュニケーション能力が低下しているのではなく、むしろ「高度化」
している。
○これは面白いよなー。
オジサン達は「最近の若いもんはコミュニケーション能力が無い」なんて言うけど
実は若者の方がより高度なコミュニケーション能力を発揮しているのかもしれない。
・「学力」が高い者の方が「対人能力」も高い。
・「対人能力」が高いほど「進路不安」が少ない。
・「やりたいことが見つからない」若者の増加が指摘されている現今の日本において
問題解決の一助として高校での「対人能力」の形成に着目する必要性がある。
・「対人能力」が低い者は「進路不安」の高さから、ある種の選択の延期として
進学に向かうのではないか。
・家族とのコミュニケーション密度が高い者ほど「対人能力」が高い。
家族関係の質的な良好さは、子供の「対人能力」を高める上で非常に重要な働き。
○これも怖いなー。家族関係の質的な良好さ。
今はよくしゃべっているけど。いずれはなー。
夫婦仲良く暮らしていることが、子供たちにとってはいいことなのかも。
それぐらいしかできないかもなー。
・専門高校への在学が「対人能力」とプラスの関係にある。
職業的な意義が見えやすい教育が「対人能力」の向上に寄与するという可能性。
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●生きるためのスキル
・直線的移行からヨーヨー型移行へ
学校を出てすぐ正社員として就職し、やがて結婚して一家を構えて子供を持つ
という単線的な「大人」への道筋が見えにくくなっている。
・多元化に伴って進行するのは人生の「個人化」である。
多くの複雑な選択肢の中からいかにして自分なりの選択を行い、自分が求める
ことを実現していけるかが難しい課題となる。
○そうだろうなー。でも半面、チャンスが広がったという見方もできる。
今までは選択肢そのものが少なかった。
・社会的地位に影響を及ぼす可能性がある能力を「ライフスキル」と呼ぶ。
・男性は親元から独立した方が「ライフスキル」の向上につながる。
・圧力的な親子関係は、ライフスキル形成に対して阻害的に働く場合がある。
・ライフスキルの基盤として、基本的な知的能力が極めて重要。
・「学力」という近代型能力が「ライフスキル」というポスト近代型能力の
ベースになっている。
・正社員という形での職業的地位の達成に強い効果を及ぼしているのは、
学力や学歴などの近代型能力である。
・男性の場合「家事スキル」が高く「ポジティブ志向」が強い者ほど、収入が高い。
○これは面白いなー。
家事スキルが高いと、女性への配慮ができ、段取り力が高まるから?
・女性の場合「コンピュータスキル」が収入と強い相関関係をもっている。
・「コンピュータスキル」が高い場合、結婚による家族形成に消極的になる。
○これ怖いなー。でも何となく分かる気がする。
・女性では収入が高いほど、教育年数が長いほど、結婚をちゅうちょしがち。
・男性の「家事スキル」を増大させ、女性の家事負担を軽減することが、男女双方
の職業面、家族面でのバランスのとれた「社会的地位」の獲得にとって有効。
○俺も「家事スキル」を少し高めよう。
朝ごはんをたま~に作る。洗濯物をたま~にたたむ。ぐらいしかできないなー。
子供の面倒は比較的見ているほうかも。
・男女とも中3時の成績という「学力」がコミュニケーションスキルの基盤として
重要。友人関係などで充実した学校生活を送っていた場合に、コミュニケーション
スキルは高まるという傾向。
・男女とも父親との関係性が「ポジティブ志向」に影響を示している。
父親が自分のことを理解してくれている場合には高く、口うるさい場合に低い。
○怖いなー、これ。
ある程度、父親には厳しさも必要ではないかと考えている。
子供のことを理解しようとはする。その努力は示したい。でも甘やかしたくはない。
ま、色々考えても、普段の自分が素にでちゃうもんなー。
家庭で子供に向き合っていると。カッコつけられないし、さらけでてしまう。
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●女性たちの選択
・ハイパーメリトクラシ―が増大させる母親の教育責任。
・近年の母親のあり方を「人格も学力も」という全方位型の教育関心を持つ
「パーフェクトマザー」への志向として、広田は記述した。
○確かにそうかもなー。特に、都会のお母さんたちはそうなのかも。
うちの奥さんは、こういう志向はあんまりなさそう。
俺が頭でっかちな分、奥さんのこういう自然さは大事。このままでいてほしい。
・ハイパーメリトクラシー化に伴う母親の教育役割の増大は、女性に子供を
もつことをちゅうちょさせる方向に働いているのではないか。
・「たくましい子供の育ち」が「ポスト近代型能力」への考慮を含んでいるとすれば
それを家庭外の学校教育において確保しようとする試みは、母親の教育責任の
軽減につながる可能性がある。
○父親にできることは?
子どもと話す
妻と仲良くする
子供を理解しようとする
家事スキルの向上
家庭の質的なあり方を良くする ?
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●ハイパー・メリトクラシ―に抗うために
・ハイパーメリトクラシー言説は、多様なメディアを通じて社会全体を広く
覆いつつある。その威力は、対抗言説が成立しにくい状態するもたらしている。
・現代社会の中で望ましい社会的地位を獲得する上では、近代型能力だけでなく、
ポスト近代型能力を兼ね備えていることが不可欠になっている。
○家庭のあり方→学力→対人能力→社会的地位の獲得 という流れなのかなー。
・親子関係が良好であることが「ポスト近代型能力」の形成を強く促進している。
○「親は無くとも子は育つ」はないのかなー。
・ハイパーメリトクラシー下では、ちょっとした気遣いや当意即妙のアドリブ的な
言動が、個々人のポスト近代型能力の指標とされる。
その中で生き続けるためには、極めて大きな精神的エネルギーを必要とする。
・家庭以外の場においてポスト近代型能力の形成を補償する仕組みが必要なのでは。
・その有力な候補として挙げられるのは「地域」であるが、過度に期待することには
格差と集団主義的同調圧力という点から疑問符がつく。
・もうひとつ考えられるのは「学校教育」であるが、難しい。
何故なら学校、学級はフィードフォワードコントロール(事前制御)により
かく乱要因をできるだけ排除したチェーンシステムとしてのハードウェア上の
特徴をもつのに対し、ソフトウェア面では「児童中心」「個性尊重」などの
教育言説が肥大し、両者の間にはかい離が存在するから。
○そういうことだったのか。
確かに学校において「かく乱要因」(騒がしい子供、“個性的”な子供)は
排除したいという本音がある。
学校の秩序の中で、先生たちに従ってくれる子が、いい子。
それは、チェーンシステムとしての特徴だから、至極当たり前のことということか。
・筆者が主張したいのは、ポスト近代型能力へのいや増す圧力を別の方向に逃がす、
ないし「かわす」という方向性である。
○合気道の考え方みたいだなー。
・専門性への期待
専門性とは、個々人が社会の中で、特に仕事に関する面で、立脚することができる
一定範囲の知的領域のことである。
○自分の専門性により、社会に役立っている、貢献しているという実感をもてる。
・専門性を個々人が身につけることが、ハイパーメリトクラシーがつきつけてくる
容赦なくかつ捉えどころのないポスト近代型能力の要請に対抗するための有効な
「鎧」となり得る。
・意欲、問題解決能力、創造性、対人能力などのポスト近代型能力が要求されると
しても、あくまでその「専門」的な領域に関わる範囲において応えればよい。
○ポスト近代型能力を身につけているからこそ、
専門性を発揮できるとも考えられないか。
専門バカになっていない人は、ポスト近代型能力、
例えば対人能力が身についている。
家庭→学力→対人能力(ポスト近代型能力)→専門性→社会的地位→更なる専門性?
○確かに、自分の強い分野「専門性」があると、自分のより所、立脚点とはなる。
他では弱いけど、この分野なら強い。そこで自信を取り戻せる。
講師として質問を受けた時、自分の得意分野に話をもっていって、
その範囲で質問に答えるというやり方「ブリッジング」がある。
これも一つの鎧なのかも。
・人間の内面=心にまで鋭い視線を注ぐハイパーメリトクラシーに対抗して
「専門性」という区切り、仕切りを設けることで、圧力を緩和する。
・一定の幅広さをもち継続的な更新が可能かつ必要な「専門性」に個々人がそれぞれ
足場を持つことにより、実は個人の中にポスト近代型能力が形成されやすく
なるのでは。
・専門性は個人と個人が結びつくための強力な「ネタ」を提供する。
○確かにそうだ。他者に自分に無い専門性がある、つまり自分と違う人間だからこそ
会うと面白いのかも。
・専門性は個々人にとって何らかの「選択」を不可避とすることから、
アイデンティティの感覚や意志力、決断力の形成に役立つ。
○確かにそうだけど、選択をいつ行うのか、それは途中で変更可能なのか
という点も大事だろうな。
自分の専門性「これでいこう!」と決めるためには、その前の試行錯誤も
やっぱり必要。
独立した後、弱い自営業者が生き残っていくために、常に自分の専門性をどこに
置くか、お客様が評価してくれる専門性は何かを、俺は常に問うてきたつもり。
専門性は既に身につけている人が、言うのは簡単だけど、そこに至るまでは大変。
それでも、筆者の言うように、専門性が鎧になる、向かうべき方向としては
良いと、俺も思う。
・専門性は、自己効力感や社会的責任感の形成にも貢献し得る。
・専門性はハイパーメリトクラシーに対する「鎧」を提供するだけでなく、実は
迂回的にハイパーメリトクラシーに向けて個人を準備させる「意図せざる結果」
をも伴っている可能性が高い。
・個々人が専門性を形成できる機会を、社会の中に潤沢かつ周到に設けることが、
現実的な対処となりえる。
その際に、特に重視されるべきは、やはり学校教育である。
・現状は、長期雇用の対象となる基幹労働力の主要なプールである新規学卒者に
対しては主に「ポスト近代型能力」を基準とする「人物本位」の採用が行われている
より専門性へと重心を移した採用手法を取り入れることが企業にとっても個人に
とってもより望ましい結果をもたらすと考えられる。
○学校教育で、本当に専門性が身につくのか。
会社に入った後、その専門性一本で仕事ができるのか。
(本人の飽き、モチベーションの低下、視野の狭さ、縦割り組織
小池先生の言うように「ローテーションで人材育成」をしてきた日本企業にとって、
専門性よりも、どこでもある程度順応し仕事ができる人材、つまり
ポスト近代型能力をもつ人材の方が、使いやすいという面はあるのでは。
○そうは言っても、色々やってきたけど、やっぱり自分に興味のあったのは、
~だったということもある。
俺で言えば「学び」なのかも。(未だ幅広いけど)
今は企業内教育で新入社員の育成という分野で、職場での指導育成、OJT
という点で、専門性を磨きたいと思って、大学院に入った。
でも、この専門性もいずれ変っていくかも。
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●あとがき
・ハイパーメリトクラシー化と総称される事態が着々と進んでいるにも関わらず、
社会全体としてそうした動向やそれがはらむ問題性についてほとんど無自覚である。
・本書のテーマは、他の多くの研究領域との接続可能性をもっている。
自己論、組織論、ソーシャルキャピタル論、キャリア形成論、学習理論など。
○俺がやりたい「新規学卒者の職場での成長支援」も、
このテーマに関わってくるのかも。
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