「わざ」から知る 2007年
生田久美子著
○形の模倣を繰り返し「型」を修得(ハビトス化)する
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(・引用/要約 ○関根の独り言)
●生田先生
・子供の遊びの中に、大人の仕事が身近に入り込んでいた
・「型」というのは、現実感をもった人間として生存する
「基本」と考えてよいだろう
・「形」の習得=手続きの連続の習得
「型」の修得=現実感覚を伴う意味の理解
・日本舞踊では、最初から師匠の動作の全体的な模倣から
入っていく
・易から難へと段階を追って進むのではなく、
むしろ難を入門者に経験させる。
・日本の修行方式は、体験がまず先で、教科書はそれを
補足する役割。
・「わざ」の世界での究極目標である「形」の模倣を
超えたものをあえて表現するならば「型」の習得と
言い換えることができるだろう。
・わざの世界での教授プロセスにおいて「模倣」
「非段階性」「非透明な評価」といった特徴をもつ
学習方法が上手くいってきた。
・M.モースの「ハビトス」=「型」
・ハビトス(型)の学習は、「形」の模倣から始まる
そこで生じるのは「威光模倣」である。
・ポランニーは「自らの主体的な動き」に至るためには、
学習者の「解釈の努力」が必要であることを指摘。
・子供は自分が権威として認めている父母のすることを
目にして「自分もああなりたい」「かっこいいなあ」と
その動作を「善いもの」として同意し、それを1つの
原動力として模倣活動に入っていく。
○自分の子供たちからそう思ってもらえているのかな・・
・「無主風」とは師匠の形を模倣したまま演じている段階
であり、能の世界で最終的に到達すべき段階は
「有主風」の状態。
・有主風=形をハビトス化した状態
・内弟子制度の教育的意義は、わざの世界に流れる空気を
吸い、その世界に固有の「間」を比較的容易に体得する
ことができるという点。
・「世界への潜入」
・エントレインメント(Entrainment):二人の身体の
リズムが互いに同調し会う状態
・「わざ」修得の認知構造
主観的行動(自分1)守
客観的行動(自分2)破
(自分3)離
・V.ホワードは、声楽の教授プロセスで用いられる独特の
言語を「Craft Languageわざ言語」と呼んでいる。
・わざ言語は、教師の身体の中の感覚をありのままに表現
・わざ言語の使用は、わざにおける「間」を体得していく
上で重要な役割を果たしている
・型の習得に至るプロセスで欠かせない要素になっている
のが「世界への潜入」すなわち当の「わざ」の世界に
学習者自身が身体全体でコミットすると言う点
・ソクラテスは「知識とは何か」を考えた。
知識とは「真実なる思いなしに言論を加えたもの」
彼は、人を教えるものが「知識」とは何かを知らずに、
あるいは吟味を試みないで、どうして教える者としての
資格をもちえるのかと考えたに違いない。
・わざの習得プロセスでは、師匠の形を模倣し、それを
繰り返すことによって「形」をハビトス化(型)して
いくことが目指されている。
・教育の真の目的は、子供達に様々な知識を有主風の
「型」として学ばせていくことにおかれなければ
ならないのではないか。
・わざの伝承方式のどの部分が、ITなどの新しいツール
によって代替可能か、そしてどの部分が代替不可能か。
●佐伯先生
・文化人類学とソビエト心理学の活動理論との共通点
・人間は領域と関わり、文脈に応えることで思考が活動し
技能が巧みになるのだとする
・わざの型の考え方は、活動を行為や操作の単なる集合体
とは区別する活動理論の考え方と共通する
・文化的実践への参加といったときには、価値の絶対的な
基準となるような意味での「師匠」は存在しない。
・参加を中止にした「わざ」観からすると、わざというの
は「呼びかけ」であり、それへの「応え」である。
・わざの上達とは、結局「対話」の上達にほかならない。
したがって多くの「声」を聞き分けることと、
相手の身になることの2つがわざの基本であると言える
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