○報徳博物館で、埼玉県の偉人「小谷三志」と出会うことができました。感謝!
○小谷三志は、富士講の一派 不二道の創設者です。「男女平等」を主張し、富士山で初の女性登頂達成を実現しました。二宮尊徳とも交流があり、尊徳の師であったとも言われています。弟子と対等に学ぶ姿勢から、多くの力ある弟子を育てています。埼玉県鳩ケ谷市(現川口市)に、丸石のお墓もあるそうです。今度行ってみます。
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『鳩ケ谷文書による富士信仰研究卒業論文集』
●不二道の研究
・富士講は、近世初期に富士行者 書行(角行)藤仏によって開かれたと伝えられる。
・富士山を神とみなし、仙元大菩薩とする。その胎内から万物が生み出されたと考える。
・不二道は、富士講から分裂し独立した一派であり、家業出精、倹約、和合、孝行などを説き、信者を組織して、道路堤防などの修築のような社会奉仕や、凶歳救恤のための貯蓄などを行った一種の宗教運動である。
・食行身禄の宗教思想が、埼玉鳩ケ谷にあった富士講の一つに伝わり、一定の変質を経た後、江戸近郊地域の庶民社会に定着した。それが小谷三志に率いられた不二道と称する一派である。
・不二道では、信者一人一人が、信仰の主体であって、教義を中心に結合している。
・不二道の説く望ましい人間の生活態度とは、社会的経済的な上昇の可能性の下で、夫婦や家族が和合し、協力して勤労し、また子供を生み出すという積極的な生き方であった。
・不二道の思想は、封建制社会において民衆の意識を束縛していた、すべての外的権威の観念的支配から、民衆を開放するものであった。
・しかし、そこに新たな呪縛が形成される契機がはらまれていた。
・不二道の思想の中では、社会の中にある矛盾が見えなくなり、全ての困難が最終的には自分の努力(家業精勤という形での)の不足に帰せられるのである。
・二宮尊徳は、不二道から大きな影響を受けていたようである。彼は三志から教えを聞いたり、不二道に対して、相当額の喜捨を行っていた。
・彼は、文政10年頃からよく次のような道歌をつくったそうである「昨日より知らぬあしたのなつかしや 本の父母在しませばこそ」
●二宮尊徳の仕法について
・それまで「師無し」と言われていた尊徳への小谷三志の影響について考える。
・真の生活を求めるのが難しい時代は、何か一つの哲学を持たざるを得ない。
・仕法雛形は、こうすれば必ずこうなる、ということをくどいほど書いている。
・報徳は、分度の経済学。
・二宮尊徳は「できないことは言うな、言ったことは必ずやらなければならぬ、やったことは成功させねばならぬ」と言っている。
・難村の開発力の源は、人心、つまり「気」の充実。
・仕法の実際の手段は、入るを量り、出るを制すということだけ。
・村を富ませようする場合でも、国を富ませようとする場合でも、一人一人、個人そのものを富ませる以外に道はない。
・「成田山の参籠」と呼ばれる難局の時期に、小谷三志との出会いもあった。
・「聖人の当座漬」といって笑っている。尊徳の道理を聞いて涙を流す男が、その行いをすぐさま実行に移せない。
・少し楽になると、たちまち怠ける。報徳ではここが一番の難関である。
・二宮尊徳の心とか気、つまり精神的な面では、富士講(不二道)の影響が見られる。実際、小谷三志との交流が続いたという文献も残っている。
・二宮が三志に送った歌
「二と三と一つたがえど軒ならび 旭の御修行は友に拝さん」
・三志が答えて、二宮に
「三界一息に行く気なるぞや 三ごく楽に一すじでよし」
・尊徳は、不二道の良い所を取り入れたのではないか。
・不二道は、神仏儒の和合であり、尊徳の神儒仏正味一粒丸と対比し興味深い。
・不二道は、救われるに値する資質を持っている人間だけが救われるのであり、二宮の道は誰でも救われる。ここに、宗教不二道と、人道報徳の違いがある。
・不二道とは、富士講に心学を加えたのではないかと言いたいほど、心学の影響が入っている。
・二宮尊徳も、三志により、心学の影響が入ったのではないだろうか。
●幕末期の民衆と富士信仰
・富士講は、日本古来の山岳信仰の一つ、富士信仰から発展したもの。
・遠隔地では、模造富士を造設し拝した。
・富士山の神霊は、本来の「木花咲耶姫」だったが、神仏習合を経て「浅間大日神」となり更に近世の富士講は、これを「仙元大菩薩」とした。
・女性史の立場からも不二道が注目されるのは「女男」「母父」という女が男に、男が女になるという「ふりかわり」を前提した観念から発せられる表現があるためである。
●幕末関東における剣術流派の研究
・幕末時期の農村において、二宮尊徳や大原幽玄などの「農政学者」または「篤農」と言われる者が出現し、農村の復興に尽力した。
・不二心流を開いた中村一心斎は、文政元年6月に富士登山をした際、6月15日に富士登山をした小谷三志と出会っている可能性が高い。
・一心斎と不二道とは大きな関わりがあったと推測できる。
・不二道が深く浸透した地域を中心に、不二心流が分布したと言えよう。
●近世関東における庶民信仰の研究
・八世の跡目を継いだ三志の布教活動は積極的であった。
・秘巻とされていた身禄の巻物や、参行の残した著述を、弟子と共に見て、論じ合うという方法を取っている。
・解釈についても、三志の説く言葉は決して絶対的なものではなく、弟子たちと論じ合って、正しいと思われるものに決定した。
・女性不浄説の否定は、身禄の時から主張していた。身禄は、女性の生理は、子供を生むのに必要不可欠なものであるとした。
・天保三年(1832年)辰年9月26日、三志68歳の時、女性の不浄の否定や富士山の女人解禁を果たす為、女人登山を行い、成功させたのである。
・富士登山初の女性は、三辰という弟子である。
・三志は、日本はもともと女性が優位の国であり、歴史上の女性を見ても優れた女性が多い。女性を見下すのは、大陸から来た思想であると主張した。
・三志の死後、不二道には、京都派と、鳩ケ谷派が生じつつあった。
・棟行も花守も、悟行と共に、三志の弟子でありながら、それぞれが強い個性を持ち、自分なりの論を主張できる人達であった。
・そのような弟子を生み出したのは、三志が自分を絶対化することなく、常に弟子と論じ合う方法をとっていたことによるものだと思う。
〇これいいな~。三志についてもっと知りたい。
・三志が晩年説いた「天地ふりかわり論」は、不二道の頂点を極めたものだと感じる。将軍、幕府の重視、鎖国の否定、女性の優位等、当時考えられていたこととは全く正反対のことを説いている。
・それは封建時代では想像もつかないほど、進んでいた思想であった。
●近世後期の庶民信仰
・富士講系譜
・原始において女性は、霊的存在として神聖視されていたものが、中世以降の神社信仰や仏教などの影響で、女性不浄観、罪障観が強調されていった。
・男尊女卑の儒教によって、それらが増幅された。
・女性は環境の変化に影響されやすく、変化しやすい存在であると思う。時代を敏感に反映する貴重な材料となりうる。
●近世における富士信仰の思想的意義
・平安時代後期になると、山岳仏教が浸透し、修験という「人間が山体そのものにアタックして山頂をきわめ、山林にこもって修行する」形態が生まれるのである。
・富士修験の末代上人は、浅間大神=浅間大日神(仙元大菩薩)=大日如来というつながりを解明し、仙元大菩薩が男体であり、浅間神社が祀るコノハナサクヤ姫が女神であるという矛盾に対し「神仏は男女を超越した世界に住たもうたものである」と悟ったという。
・禄行三志は、不二道講中から、御尊師様と呼ばれていたが、絶対の教主となることを拒み、あくまで人間のままで、教義の実践を講中の人々と共に目指す指導者であった。
・神仏習合等の影響からか、仙元大菩薩の名は一定していない。仙元大日神であったり、仙元大菩薩であったりと。
・人間は、その元は仙元大菩薩であるので、その本性は、神聖、純粋、完全といったものである。
・各地に富士塚なる人造のミニチュアの富士山が造られ、現存しているものもある。これは、実際に富士山に登ることができなくても、富士登拝の真似ができるようにという目的で造られたものである。これは、「類感呪術」と言えるだろう。
・不可思議な矛盾を、呪術は、説明可能にする。
●岡田博氏によるあとがき
・「小谷三志の教えがそんなに良いものながら、滅びて無くなるはずがないのに、不二道心講は、なぜ消えてしまったのでしょう?」
・「信心を飯の種にする人がいなかったからでしょう。
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『報徳と不二孝仲間』岡田博
●まえがき
・「明治」という時代は、二宮尊徳という人物の全人格、全業績を世人の前に表すことを許さなかった。
・「報徳思想」形成段階の討論相手となった小谷三志とその門下生たち。
・岡田さんの研究はもっと広く「二と三」を「結んだ人たち」に重点を置く。
・小谷三志の広めた不二の教えは「家業出精」「人間平等」である。
●下物井村岸右衛門
・仕法初期反抗者の代表とされている。
・「報徳記」による冤罪
・物井両村からの参加者全員が「不二孝」小谷三志の影響下にあったのである。
●井上村兵右衛門
・女には男と同等の力があり、同等の仕事が可能であるというのが、不二道思想の根源である。
・文政十年11月9日、小谷三志が桜町を訪問。この後、三志と尊徳の関係は急速に深まっていく。
・尊徳の留守の三か月間を支えていたのは、波子夫人であり、その波子夫人を背後から支えていたのが、不二孝仲間。
・天保元年から、九年に三志が病に伏すまでが、三志と尊徳の蜜月時代。
●欽行若林金吾
・金吾は、温行六知と名を改め、尊徳、三志の門下とも連絡を断ち、全くの別天地に不二孝の自派を起こした。
・三志も「六」という数を重大視。
●峯高七郎治
・村の復興を図る時、尊徳の基本政策は、農民個々の「本百姓化」である。
・岸右衛門が、三志の持論の「人間平等論」を身をもって実践した。桜町の役職と身分を越えて、村の指導者として動き出した。これは一つの革命。
・一様に借金は恐ろしいものであって、生活に使い果たす金と、資本に転化する金との区別は理解することができず、資本としての貨幣を運用する能力を持つ指導者はなかった。
・資本に転化する借金を恐れない入百姓寸平が生まれたことが、横田村革新の糸口となった。
・不二の教えが世界に普遍的の教えであることを確認。
●西物井村金兵衛
・自身は全くないものにしているのが、不二行者禄行三志であった。
・キリスト教の唯一神論に対して、富士講の「元の父母」は双体神であり、その思想の根は山岳宗教の正統である修験道から得ているとみて良い。
・二宮先生が、村人に教えよう、導こう、改めさせようとしている内は、何も言わなかった。
・早起きは、二宮金次郎一人ではなかった。
・三志は、不二信心の中に、若き日に聞いた石門心学の講話と共通する教えを多く見出した。
●大島勇助
・二宮哲学の爆発は、天保三年11月11日までの不二孝仲間との対談、鼎談、芋こじによって刺戟されたところから、結果をもたらしたと思う。
●中村勧農衛
・加持祈祷を止め、富士行者の持つ不思議の法力による加護を否定し、富士山を拝することによって得る利益を否定した三志が、諸国を廻って説いた富士信心は、富士山に具現される「元の父母」と呼ばれる天地創造神との直結した信仰である。
・三志の弟子となる者たちは、その土地土地の強者であった。
・対して二宮尊徳の対象になった民衆は、選ばれた民衆ではなく、領民全体である。
・弱い個々の民衆を、推譲をなし得る人間にするには、腹くちく食べられる世が必要である。
・二宮尊徳を「封建幕藩体制擁護と延長のため努力の人」またその思想を「封建制維持のための忠僕」と評価することが、読書人を自認している人たちの常識になっていた。
・戦後が否定した二宮尊徳は、実像ではなく、国策が作り上げた尊徳の虚像なのである。
・戦前が触れなかった「民衆運動指導者」としての二宮尊徳。その手足となって動いた不二孝仲間。
・二宮先生は、凶作を利用して、農民に金銭を得る機会を与えたのである。「まさに売るべき時は、この時だ」
・蓄財に長けた一商人、一農夫の不二孝仲間の能力を、「世の為、人の為」に活動させる方向への指針を与え、その場を与えたのが、三志であり、尊徳であった。
・不二孝仲間たちの活動を、一つの民衆運動として捉える。
・不二道には、権力に対する反抗という発想は全く生まれてこなかった。
・二宮金次郎という執政者に、民衆のための政治を行う人の出現を見たのであろう。
・桜町の領民にいつまで昔のままの貧に忍べというのか。
・三か村が生み出した富は、先生の仕法の広まる先々への資金となって散っていき、物井村に残ったものは結局昔通りに追われている農民である。
●柴田屋平八
・「鳩ケ谷三志翁勧善録」が、文政三年4月に上梓された。
・鳩ケ谷ではおぼろげに「三志は尊徳の先生である」等と語られていた。
・明治維新後の小谷三志に対する最大の評価は、勤皇家ということであった。
・その三志が、仙元大菩薩に次ぐ神として崇敬していたのが、徳川家康であり、徳川幕府の政治であった。
・天保三年9月26日、女人の富士登頂を達成させている。
・三志の信仰から来る楽天性は、時には確信として命がけの行動になって現れる。
・不二信心による「元の父母」の前には、人間はもとより鳥獣草木魚貝にいたるまで、全てが同一の存在であり、人間尊重の発生は、人間自体の自覚による労働によって生ずるものであるという信仰が基本になっていた。
・二宮哲学を形成する一隅には、参行禄王の論が確かな位置を持っていた。
・報徳とは貧者が貧から脱出して産をなすためだけの道ではなく、同時に富者がいかに正しく富を治め、天地に対して正しく生き得られるかを追求する道として出発したのである。
・報徳が本当に必要なのは、事業が成功し資産ができてからなのである。
●不退堂聖純
・不退堂聖純も三志の論に感化された公家出身の入道。
・「よき事は何一つ隠さず教える」不二道の態度。
・尊徳の周辺で最後まで「私意」を用いて無条件の弟子になりえなかった者4人は、「二と三」を結ぶ線上にある。
・報徳にあって不二道に全く存在しない発想が二つある。それが「天道と人道」「開闢進化」の論である。この両者の発見こそ、二宮哲学が他に類のない人類救済の思想となり得るのではないだろうか。
●下高田村太助
・「よその困窮を救うには、まず自分の支配する村々が安心するように方法を立てて、それから他領に及ぼすがよい」
・三志の死は、天保12年9月14日である。
・二宮先生は、人を助ける、人に教えるという以前に、その対象人物が自身で助かり、自身で学ぶ覚悟をもつことを、不可欠の条件とされた。
・三志は人間の貴賤尊卑浄穢の差別を否定した。
・不二道公認の願い出が、結局は不二道の弾圧へ進展すると、鳩ケ谷派は予想した。
・この事件は、二宮尊徳にとっても、三志と不二道に対する見解を改めさせる原因となった。
・三志は自己を神聖化することなく、教典の秘巻のすべてを弟子と共に開いた。「弟子に教わる、それに勝る喜びは無い」と弟子を称えた。
・その自由に討論できる状況から、多くの弟子が育ったのであるが、同時に明治維新後の分裂も教主の絶対神聖を体質化させなかった三志の性格に起因があろう。
●あとがき
・この物語は、すべての回が岸右衛門のことばかりとも申せましょう。
・岸右衛門は、三志の弟子になり、二宮先生に心服しながらも、最後まで我を捨て去ることのできなかった人間。
・個人の「我」ではなく、三志の教えた「元の父母」と直接に結び付く「直願い」の信仰からの我と思える。
・「尊徳だけが偉いのではない、尊徳に師なしというが、尊徳は農民たちと共に育ったのだ」と断言する私です。
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参考:
小谷三志(Wiki) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E4%B8%89%E5%BF%97
小谷三志を訪ねて http://www.hatomame.net/backno/tokusyu/1310/tanken.htm
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『日本人と山の宗教』菊地大樹(2020)
○富士講つながりで山の本。
・山伏たちの最も大切な宗教活動は、境界領域を足場に、山とひととを結びつけることだったのである。
・たとえ裾野であっても、山には日常の生活圏とはまったく異なる自然の秩序やシステムがあった。
・「里山」がことばとして一般的に認知されるようになったのは、せいぜい1980年代末以降。
・「修験」はもと山林での修行ではなく、それによって得られた験力を指していた。
・「先達」とは、先頭に立って山林修行者らを導くリーダー格の山伏である。
・「霞を食って生きる」とは、今では浮世離れした人を皮肉る言葉だが、元々仙人が山の霊気を取り込んで、不老長寿を得ることを指していた。
・「頂を極める」という西欧近代的な登山観。
・山伏にとって、山は常に「帰る場所」であった。
・人生に行き詰った時に山に帰り、そこですべてを「リセット」して日常を生き直す。そこまでではなくても、山が現代人にとってまた訪れたいと思う「リフレッシュ」の場であることは明らかである。
・山の宗教の中心は、裾野にこそ求めるべき。
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