〇小田原の報徳博物館で買った本。これら2冊を読んで初めて、二宮尊徳翁の本を読んだと言えるのかも。
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『報徳記(上下)』富田高慶 原著、佐々井典比古 訳注(1954)
・報徳記の出版については、明治天皇に深い根源がある。
・分度を定めるのは、礼記の「王制」にいわゆる「入るを量って出すことなす」ものである。
・小を積んで大とするのは、自然の道。
・およそ機嫌をとりに真っ先にやってくるのは、必ず腹黒い悪人。
・恩を施すほどかえって風俗が堕落する。
・お前のような不正直者がいれば、みんなが怠りを生ずる本になる。人をだましてうまいことをしようとするようなものは、私の所では使わない。
・おのれを捨てて人を恵むより尊いことは無い。
・主たる者の理解と決意がない限り、仕法の効果は期することができないのである。
・衰えた村を興すということは、実に難しいことだ。お前たちが、現在やりやすいことさえやらずにおいて、難しいことをやろうというのは、間違いではないか。
・古来、事の成否は、要するに、当事者の人物に存する。
・およそ万物には自然の時節があって、その時節でなければ何事もすることができない。
・あちらから来て道を聞くときは教えてやるがよいが、こちらから行って説きつけるのは自然の道ではない。
・時を待たずに事をしようとすれば、必ず害がある。
・世人の毀誉によって心を動かし行いを変ずるような者は、共に道を行うことはできない。
・今の慈愛は、子孫の大害。
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・私がまた時節を待ってこれを興復してあげよう。その時に応じて当然の道を行うことが、即ち仕法の本体である。
・どのような困窮の時でも、おのずから処すべき道がないとは言えない。
・家老さえ餓死すれば、万民は救助せずとも必ず飢え死にを免れるはず。
・分度によって、入るを計って、出ずるを制し、節倹を行って余財を生じ、万民を救助する。
・仁政の本源である分度を定める。
・万物は一つもその一所にとどまることはない。四季の循環と同様。
・本当に道が行われる時節であれば、家老が来て道を問うはずである。
・国家の政治のあり方は、取ると施すの2つにとどまる。
・まず与えなければ、民は生活の安定ができない。
・水は高い所から低い所に流れるのが順序であり、勧善の道は、善を先にするのを肝要とする。
・私は順序の違うことは絶対にしない。
・万事の成功不成功はおのずから時節があり、また事業には前後の順序がある。
・善は人に推し譲り、他人の過失は自分に引き取る。
・道の荒廃は天命であって、代官などにあるのではない。時節を待つ。
・徒歩で村中を巡回。
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『二宮翁夜話(上下)』福住正兄 原著、佐々井典比古 訳注(1958)
・わが教であh書籍を尊ばず、天地をもって経文とする。
・入口は大道は一つ。
・私が人を教えるには、まずその分限を明細に調べる。
・道は書物にあるのではなくて、行いにある。
・元々は聖人の学だが、お前さんが肥桶の口から講釈するものだから、弟子たちが聞かないのだ。
・不二講で名高い小谷三志。文政10年から翁と親交があった。
・神儒仏正味一粒丸
・人道は、例えば、水車のようなもの。人道は、中庸と尊ぶ。
・己に克つ。己とは私欲。田畑に例えれば草。克つとは、田畑に生ずる草を取捨てること。
・木の葉がおちるのは天道。人道をもって、毎朝一度は掃く。あとまた落ちて来ても捨てておき、また朝に掃く。
・一人の心の開拓ができただけで、一村が速やかに一新した。
・明徳を明らかにするとは、心の開拓を言う。
・「我という その大元を尋ぬれば 食うと着るとの二つなりけり」
・政治も教法も、みなこの2つの安全をはかるために他ならない。
・心が平らでなければ、みなゆがむ。
・因というのは、例えばまいた種のことだ。これを耕作培養するのが縁だ。種をまいた因と、培養した縁とによって、秋のみのりを得る、これを果というのだ。
・財貨は富者のところに集まるのではなく、節倹なところと、勉励するところに集まるのだ。
・禍福は方位ではなく因果応報。信ずるべきものは「積善の家余慶あり」の金言だ。
・小さなことをいい加減にする者は、大きなことは決してできぬものだ。
・世の海を穏やかに渡る術は、勤倹譲の3つに尽きる。
・農業は大本なのだから、全国の人民が農業になっても差し支えなく立ちゆくだろう。
・草が少なくて、いたって手軽な畑から手入れして、草のいたって多い所は最後にするが良い。
・分度を守ることを、わが道の第一の眼目とする。
・人道は、天道とは違って、譲道によって立つものだ。
・仁とは、湯船の湯のようなもの。向こうの方に押せば、こっちの方に流れて帰る。
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・とことんまで世の為人のためにささげ尽くす。
・多く積み少なく散ずる大原則。
・翁の教えに低頭して感謝した中村の句「じりじりと照りつけられて実のる秋」
・遠きをはかる者は富む。
・算術で示すと、どんな悟道者でも、理論家でも、一言もない。
・善人は表に出ずに引きこもるくせのあるもので、努めて引き出さなければ出てこない。
・葦原に一人で天降ったものと覚悟すれば、この上なくさっぱりする。
・学問は、活用を尊ぶ。
・仕法も世話をやきすぎるな。「さき過ぎて 見るさえいやし梅の花」 何事でも、過ぎたのは及ばないより劣る。
・災害は、60年間に一度ぐらいは必ずあるものだ。
・親を安心させてこそ至孝といえよう。
・教訓とは、たとえば、病気に対する処方のように、その病気にしたがって施すものだ。
・交際は、碁将棋にならえ。強いものが駒を落として、相手の力と相応する程度にしてさすのだ。
・長所を友とし、短所は友としない。
・孔子が知らぬと答える時は、知らないのではなく、教えるべき場合でないか、教えても益がない場合なのだ。
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参考:二宮尊徳(3)https://www.learn-well.com/blog/2021/05/ninomiya-sontoku-3.html
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