立教大学院 中原研 夏の特別ゼミ企画で、ヴィゴツキーの『発達の最近接領域の理論』を読みました。ゼミでの意見交換含め、差しさわりの無い範囲で共有します。
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『発達の最近接領域の理論』ヴィゴツキー(著)土井・神谷(訳)(2003)
1.学齢期における教授・学習と知的発達の問題
・「アブゥチェーニエ」を「教授・学習」と訳した。
・ヴィゴツキーは、子どもの発達を2つの水準でとらえる「二重発達説」をもつ。
「現在の発達水準」と「明日の発達水準」
・この2つの水準のくいちがいを「発達の最近接領域」と規定。
・教授・学習は、発達の尻にくっついていくものではなく、先回りし、適切な教育的課題は、発達の最近接領域内において与えられなければならないと考えた。
・第一の理論家たち(ピアジェ?)は、発達のサイクルは、教授・学習のサイクルに先行すると主張。
・第二の理論(ジェームズ?)では、均等に並行して進行し、教授・学習の一歩一歩が発達の歩みに対応。
・発達過程は、教授・学習とは無関係な過程(ピアジェ?)
教授・学習は、発達と同じもの(ジェームズ)
・第三の理論(コフカ?)は、形式陶治?の学説に回帰
・動物は可能な行為のみを模倣することができる。
・子どもにおける模倣の特色は、子どもが自分自身の可能性の限界をはるかにこえた行為を模倣しうる点にある。
・子どもが今日、大人の助けを受けて出来ることを、明日には、彼は自主的にできるようになるでしょう。
・大人の教授・学習が、こどものそれとは、どの点で原理的に異なるのかという問題は、いまだ十分に解明されていない。
・発達過程は、教授・学習過程と一致しない。発達過程は、発達の最近接領域を創造する教授・学習過程の「後を追って」進む。
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○ゼミでの意見交換
・大人にも「発達の最近接領域」もあるのでは?
・コンフォート、ストレッチ、パニックゾーンという分け方は、教育学では出てこない。
・あの分け方は、エモーションを説明する概念。野外教育の研究者たちが使う。
・ここでいう「発達 Development」とは?
・脳の発達?概念の習得が発達?
・ヴィゴツキーの仮想敵は、ピアジェ。ステージ論を用いるのは分かるけど、教えるとか、他者の支えという視点が全くないのが、おかしいと。
・ZPDでは「どういう風に他者が関わればよいか」は示されてない。
・一時、ヴィゴツキーは「教え込み」と解釈されていた。注入主義ぽく捉えられていた。
・児童学なので、ロシアの3歳~7歳の就学前期を対象にしている。
・ピアジェは、12歳までの研究。
・子どもがいると、発達の最近接領域を身近に感じる。
・「ZPD ゾーペド議論」
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2.就学前期における教授・学習と発達
・ヴィゴツキーは「発達に対する教授・学習」の関係を「自然発生的」と「反応的」性格の概念によって見事に整理している。
・ヴィゴツキーは「発達の最適期」いわゆる「臨界期」の問題を取り上げている。
・子ども自身が周囲の環境から摂取する。
・ことばの教授・学習のプログラムを、子どもは自分で規定する。自然発生的。
・子どもが学校で教師のもとで学ぶ。このタイプは反応的。
・子どもが自然発生的タイプから、反応的タイプへと移行する。
・あらゆる教授・学習には最適期が、最も好都合な時期が存在する。
・記憶喪失症は、乳児期の基本原則。3歳になるまでの自分を覚えていない。
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○ゼミでの意見交換
・「ZPD ゾーペド議論」誰が、どう関われば良いのか。
・音を概念化できると学べるようになる。
・バイオリンが3歳だと難しいけど、4歳から出来た。
・自然的発達:生態的。
文化的発達:ソーシャルなものと考えたのが、新しかったのでは。
・「あこがれの他者」が出てくると伸びる。これは、ピアジェとかでの心理学では説明できない。
・主体、対象、媒介する道具:ヴィゴツキーの三角形
・ここに、当時は、コンピューターという道具を置いた。
・コンピューターが実現する媒介の在り方が注目された。CSCL
・発達は、道具によるという考え方。
・ZPDをより高く、広くできるのが、CSCLではと思われていた。
・CAI(ドリル学習)は、当時、攻撃された。
・「心の声」という本で、J.ワーチが、バフチンの対話を、ヴィゴツキーのZPDと繋げた。
・絶対に分かりあえない人との対話。
(中原先生のコメント)
バフチンは、「絶望的にわかり合えない他者」とのコミュニケーションを「ダイアローグ」としました。
ダイアローグは、シンプルにいうと、自己意識の拡張につながります。
なぜなら、「つねに自己を超えていくような(わかりあえない)やりとり」が、そこにはあるからです。
それが、出会う二人のそれぞれの見解に亀裂をもたらし、新たな見解が生まれうる可能性があるからです。
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このバフチンの理論を援用して、ヴィゴツキーのZPDにつなげたのが、ジェームズワーチです。
ワーチは、ZPDを広げるものとして、ダイアローグをおこうとしたのですね。
絶対的にわかりあえない他者に出会うこと、それが発達の根源だ、ということになります。
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3.教授・学習との関連における学齢児の知的発達のダイナミズム
・ある教科は、あまりに遅すぎると教えることはできない。
・教授・学習に関しても、それぞれの教科を教えるのに「適温」がある。
・IQ知能指数
・子どもの生活年齢に対する精神年齢の関係が知能指数。
・満8歳の子どもが、知能においても、8歳の発達をとげているなら、知能指数は1、すなわち100%。12歳児の知能発達をとげているならば、150%。1.5。
・高いIQをもって入学した子どもの大多数は、高いIQが低下する傾向にある。
・学校での教授・学習の条件から最も利益を得たのは、IQの低い子供。
・8歳の子どもも、助けを借りれば、12歳の問題を解くことができる。
・現在の発達水準は昨日の発達の成果、発達の最近接領域は明日の知的発達を特徴づける。
・やさしすぎる教授・学習も、むずかしすぎる教授・学習も、ともに効果が少ない。
・模倣によって解決できるのは、自分で解けるような難易度の高い課題だけ。
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○ゼミでの意見交換
・追跡調査をすると、IQは成功につながっていなかったことが明らかになった。
・「発達の最近接領域」を拡大するような教育とは?
・小学校の教育は真逆のような。
・学校は、習得のデザインすらしていないのでは。履修主義のみでは。
・学校教育は、個別の発達を考えるZPDは相性が悪いのでは。
・ATI 適正処遇交互作用が、1960年代に流行った。
・IQは、個人のものなのかと言われたら、違う。実際は、ソーシャルの要因なのでは。
・どの場所に生まれ育ったかによって、IQも変わる。
・ヴィゴツキーの理論は、社会学に近づいている。
・ビリで行った方が、伸びる。
・ヴィゴツキーは、伸びしろを見ようとする。
・それぞれ地頭の良しあしもあるのでは?
・地頭ってあるのか?環境によるのでは?
・多重知能の視点で立つと「頭の良さ」の定義は変わる。
・小学校、中学校だと、物差しが一つ(学力)になってしまう。
・行動遺伝学の考えだと、元も子もない。教育学者は嫌う。
・社会的に決まっていると考えるのが、社会学者。
・遺伝によって決まっていると考えるのが、遺伝学者。
・物差しが一つなら、確かに、遺伝での説明はできるかも。
参考:人 間行 動 遺 伝 学 と教 育 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep1953/40/1/40_96/_pdf
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●「発達の最近接領域」を拡大するような教育とは?
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堀尾さんから頂いたこの質問をきっかけにちょっと考えてみました。
ときがわ町で開催している「比企起業大学」は、
https://hiki-kigyo-college.com/
「発達の最近接領域 Zone of Proximal Development」を拡大するような教育を実践しようとしているのかもしれません。
Distal(遠い)ではなく、Proximal(近い)だからこそ「ちょっと手を伸ばせば届きそうな先輩」の存在が重要だと考えています。
仮に、超優秀なスタートアップ起業家に囲まれたら、「自分には無理。あの人みたいにはなれない」と感じ、起業しようとは思えないかもしれません。
(確か、新村さんも紹介してくれましたが、起業家教育で「起業家の講演」を聞かせると、起業意志が下がるという研究もありましたよね)
比企起業大学は、勤め人から個人事業主(ミニ起業家)への「移行 Transition 支援」だと思っています。
だからこそ、
・同じ立場の仲間(起業を目指す学部生)
・講師もちょこっと先ゆく先輩ミニ起業家
・地域で実際に起業した先輩ミニ起業家
という「他者」の存在を大事にし、それによって、移行をスムーズにしようと取り組んでいる所はあるかもしれません。
「発達の最近接領域」を拡大するような教育には「ちょと先ゆく先輩」の存在が重要だと思っています。
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4.児童期における多言語併用の問題によせて
・多言語併用は、母語のより良い習得や子供の一般的知能発達を促進するものであるのか、あるいはブレーキになるのか。
・エプシュテインの意見では、あらゆる多言語併用は、社会的悪である。
・ロンジャは、二つの言語の並行的習得は、子どものことばの発達と知的発達を乱さなかったことを明らかにした。
・内言は、ことばの発達のより高次の段階である。
・外国語の教授・学習は、土台である母語の知識に立脚。
・外国語の習得は、子どもの母語を、高次の段階に引き上げる。
・「外国語をひとつも知らない者は、自分自身の言語をも根底までは知らない」と語るゲーテの格言は理解されなければならない。
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○ゼミでの意見交換
・子どもの「素人理論」
・第二外国語を使った思考の道具を、母語と同等に位置付けていいのか。
・主体が環境を認識する時に、媒介する道具がある。
・母語では「~」と考えられていて、別の言語では「○○」と考えられている。
・思考をつかさどるものは、言語体系である。
・高等教育を日本語で受けられない可能性。
・日本的なものの考え方は、日本語に影響されている。
・思考の質が、第二外国語だと下がってしまうのでは。
・「思考の体幹」として、日本語の高度な使用は必要になるのでは。
・英語で学んでいる層と、インドネシア語で学んでいる層との違い。
・英語により、文化的な侵略をうけることになるのでは。
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5.書きことばの前史
・シンボルと記号の独特なシステムとしての書きことば
・書きことばの獲得は、子どもにとって、独特で著しく複雑な記号のシンボルシステムを獲得することを意味する。
・子どもの最初の絵、あらゆるなぐり書きを、本来の意味での描画というよりは、むしろ身振りであると考えたい。
・子どもの絵そのものは、ビューラーの言う所によれば、表現であるよりは、むしろことば。
・子どもの絵は、本質的に描線による独特な文字。
・文に対する集中度でみれば、静かな読み(黙読)は、大声の読み(朗読)を追い越している。
・モンテッソーリの手法全体の独自性は、書き方が手の発達過程における自然的モメントとして発生することにある。
・子どもにとって書き方の困難は、手の小さな筋肉の発達度が不十分なことにある。
・シュテルンは、子どもには4歳で読み方を教えなければならないというモンテッソーリの意見に反論。あらゆる文化的国家では、読み書きの教授・学習の始まりが、生後7年目の始まりと合致しているのは偶然ではないと考えている。この確証として、モンテッソーリの幼稚園での遊びの貧困が、子どもに読み書きの方を向かせている、というムーホフの観察を引用。
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○ゼミでの意見交換
・当時、コンピューターは、高度なシンボルシステムだと思われていた。
・コンピューターを導入する意味はそこにあると。
・1930年代、ソビエトが、西側の研究をひくのは、一般的だったのか。
・物理学では、ロシアとヨーロッパの交流は無い。
・当時のピアジェは、知の巨人。
・モンテッソーリや、シュタイナーの教育は、サイエンスと言うより、プラクティスでは。
・新教育運動という流れで紹介される程度では。
・当時、三大巨頭といては、デューイ、ピアジェ、ヴィゴツキー。
・デューイとヴィゴツキーをつなげようとした。
・壮大な仮説を立てた理論家が、ヴィゴツキー。
・教授学習のグランドセオリーを作りたかったのでは。
・経営学にも「大きな物語」が無いのでは。
・ピアジェが書いたのは、論文ではなく、書籍。
・「人間とは何か?」を明らかにするのが科学ではという人もいる。
・しかし今は、X→Yの因果を緻密に見ていくのが、研究であるというのが主流。
・研究者として「どう生きるのか」という問いになるかも。
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6.生活的概念と科学的概念の発達
・ヴィゴツキーは、思考発達の内容を「知識量の増大」に還元する見解(ソーンダイク)や、ピアジェらのように、思考を構造として捉える傾向を批判的に摂取しながら「ことばと思考の統一」である「言語的思考」を研究する意義を説いている。
・ピアジェにおいては、すべての思考は、教授・学習過程の外で構成されると考える。ピアジェの観点に立つと、発達過程と教授・学習の関係の研究を放棄する必要がある。
・子どもがおとなの話や他の子どもの話を聞くとき、事実上、子どもは学習している。
・ピアジェとの論争で、既にイギリスの心理学者バレンスが、子どもは科学的概念を「兄弟」の概念よりも、より良く習得している。
・子どもが話し言葉で無意識にしていることを、書き言葉では随意的に行わなければならない。
・テストにうまく答えられないのは、子どもが無意識に自動的に自分のものにしている構造を随意的に使用することを要求する。
・子どもは常に援助があれば、自分でできるよりもたくさんのことを行うことができる。
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○ゼミでの意見交換
・「大人の学び」はどこに当てはまるのか。
・教育機関での学びは特殊。
・保田さんの博論で、ヴィゴツキーを援用して、看護師の発達を説明。
・80年代は、MBAが最盛期。MBAの知識を身に着けた大人が優秀なビジネスパーソンと見られた。
・アメリカから企業研修が戦後取り入れられた。その後、OJT。
・科学→生活→科学→生活 と揺れている。
・今は、生活では。日々の経験から学ぶ。
・大人=企業で働いている人 という前提
・あまねく大人となると、説明しにくい。
・社会環境が複雑化していて、教科書的、汎用的知識が通用しなくなっている。
・子どもの環境は大体一緒。家庭に育ち、学校に行く。
・大人だと、職業によっても色々違う。
・それぞれの学びが、領域固有になり、状況論ぽい話になるのでは。
・ジョブ型。ポジションで活躍できる人があてがわれるようになると、支援して育てるというZPD的な感覚が薄れてくるのでは。
・状況論だと、人は知識を持っていけないと考える。
・あるところで学んだ知識、スキルを、他の所に持っていけるものではない。それを「物象化」として非難。
・マルクス主義では、上部構造は下部構造に依存すると考える。
・全てはソーシャルなものである。
・労働のあり方が、人間を規定する。
・上部構造を変えたければ、下部構造を変える。
・教育学の中で、成人の教育について語っている人たちは少ない。
・社会教育の中で「アンドラゴジー」はある。
・最近は「成人発達理論」は、流行っている。
・キーガンの発達論における位置づけは分からない。
・タックマンモデルや、マズローも実証されてない。
・壮大な法螺だと、理論になるのかも。
・X→Yにこだわるなら、AIにやらせておいても良いかも。
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6.生活的概念と科学的概念の発達(つづき)
p181 母語・外国語の発達との比較
・機能的、心理学的にも、子どもは外国語と母語とをまったく異なる仕方で学習する。
・子どもは母語の習得を、名詞の男性と女性を区別することからは始めない。
・外国語は、母語とは違った仕方で覚える。
・科学的概念の習得は、生活的・自然発生的概念の習得とは違っている。
・外国語の習得が可能になるためには、母語の習得が一定の水準に達していなければならない。
・日常生活における概念(自然発生的)の発達過程と、学校における子どもの概念(科学的)の発達過程との間には、深い相互関連があり、この関連は両概念の発達が、異なるすじ道を進むからこと可能となる。
・科学的概念は、子どもの概念の範囲を拡大すると言うことも出来る。
・それらの差異は、どこにあるかを理解することこそ、したがって、発達の最近接領域を形成しながら、両概念が新しいものをもたらすのはどの点であるのかを理解する事こそが重要。
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7.教育過程の児童学的分析について
p188 児童学的分析とは何か
・学校における教育活動の児童学的分析とは何に帰着するのか。大部分は、救急援助の性格をもっている。
・授業を観察、分析し、教育者に対して、助言する。
・児童学的分析の観点
1)発達を教授・学習とは無関係にとらえる(ピアジェ)
2)教授・学習がそのまま発達である(ソーンダイク)
3)教授・学習の後、発達がついてくる(ヴィゴツキー)
・1)では、発達は、教授・学習に先行する
・この観点に立っているのがピアジェ。彼は子供達は11歳になるまで、思考をつまり因果関係の確認を獲得していないのえ、理科や社会科の教授・学習を提起する事は、11歳までは無益だと考える。
・1)の観点に関して、先進的な欧米の学校の実践に、3つの基本的修正がもたらされた。
(1)子どもの因果関係の発達が弱いのであれば、学校は最大の注意を払い、時間をもっと多く使って、この機能の発達に対して働きかけるべきと考える。
(2)アメリカの研究で生まれた「二重水準理論」
第一は、子どもの現在の発達水準、つまり今日すでに成熟した水準。
第二は、子どもの発達の最近接領域、つまり今日はまだ成熟していないが、しかし既に成熟の途上にあり、既に発芽し、明日になればもう結実し、明日になればもう現在の発達水準に移行するような今後の発達の中にある諸過程のこと。
子どもが今日、何らかの成熟した技能・能力をあらわにするとすれば、未成熟な形であっても、既に発達の進行の中にあって、発達を前に動かす、ある機能が彼には存在すると考える。
・発達の最近接領域の指標となるものは、現在の発達水準と発達の最近接領域との間の「くいちがい」なのである。
・発達の最近接領域の研究から、教授・学習は、現在の発達水準ではなく、発達の最近接領域に適応するものでなければならないという結論が引き出される。
(3)は、1)の観点を完全に根絶。子どもが教えられているか、いないかに依存して、異なるあらわれ方をすることを見逃さない。
・ソーンダイクは、教授・学習とは発達であると主張した。
・ドイツの構造心理学者コフカは、2つの対極的観点の和解をはかっているが、成功していない。
・教授・学習過程を、子どものの発達過程と同一視することは正しくない。
・子どもの発達過程を、教授・学習過程と全く無関係に遂行されると考えることも正しくない。
・学校で、私達が扱うのは二つの異なる過程:発達過程と教授・学習過程。あらゆる問題は、この2つの過程の間の関係にある。
~p197
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○ゼミでの意見交換
●「発達の最近接領域」を参考にしたJ.ブルーナーの「スキャフォルディング(足場かけ)」に関して、
いかに、足場を外していくのか、フェーディングの見極めやタイミング、フェーディングの仕方について、意見交換したい。
・「学習設計マニュアル」鈴木先生井の本が参考になる。
・手間を考えないなら、ずっと見ておく。成果物を見て、赤入れが減ってきたら、任せる。2年見てる。得意分野、不得意分野はある。
・やむを得ない修羅場で成長。本来は、社長が立たなくてはいけない舞台に、立たされたり。
・教育というより、選別。生き残る。
・Whyは共有するけど、Howは考えろ。
・優秀な学生に、研修を作らせる。最初は一緒に手を動かし、模倣してもらって、その後は、プロセスを可視化する。(LINEで状態を把握する。報連相が減る)間違った方に行きそうな時に、軌道修正する。失敗して良い環境で、体験させる。
・記者は徒弟。伸びる人は伸びる。
・独り立ち。コンサル会社は、研修期間が明確にあった。その後は、現場で学んでいく。期限、こっからは一人立ちですよ。そこから見守る割合を増やしていく。
・一個一個教えるのではなく、最終的にやってほしいことを示して、やってもらう。どこまでできるのかを見る。足りてない部分をフィードバックする。その人の全力を見る。それによって指導しなくて良い点もある。足場架けを外している。業務のプランを出してもらい、そのプランを見るる。
・新人研修を300名に対してやっている。新人の横のつながり。相互に学び合えるよう。自分がやったことを振り返る。ふり返りの良しあしを、AIで判断。アラートを出す。
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・書きことばは、話しことばを、文字記号にたんに翻訳したものであるのか。
・あらゆる活動は、その活動を育むエネルギー源を必要とする。
・話し言葉の場合、動機を良く考える必要はない。
・書き言葉の場合、より随意的に行為しなければならない。
・話し言葉は「内言」の先行者。書き言葉は、内言の後に発達。
・書き言葉は「内言」への手がかり。
・話し言葉において、理解を助けているのは、イントネーション。
・発達過程は、脳の成熟に直接的に依存した発達の何らかの進行であるというテーゼも、発達過程とは、教授・学習過程であるというテーゼも、発達は成熟プラス教授・学習であるというテーゼも正しくない。
・教授・学習は、それが発達の先回りをするときに、真の教授・学習になる。
・発達の最近接領域を創造するためには、つまり内的発達の一連の過程を生み出すためには、正しく構成された学校での教授・学習が必要なのだ。
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○ゼミでの意見交換
・暗黙知と形式知にも近いのでは。
・読み書きは、確かに難しい。文章を書けない。それは、高次だから仕方ないのかも。
・コードタクト(文章を重視)を、子供達がどう活用しているのか?楽しんでやる仕組み?
・自己効力感がわきやすいようシステムを作っている。色んな人が見て、すぐフィードバックする。即時性による強化を重視。
・小4からタイピングを始める。それまでは手書きで。
・書き言葉が高次だと言われているが、学校教育では、書き言葉の教育がなされないのはなぜか?
・コストが高い、教員も教えられないからでは。個別に文章指導するのは難しいのでは。
・日本が基礎学力として選んでいることが足りないのでは。
・日本では、コンテクストを読む訓練はしたが、それを文章として書く練習はしてない。
・構造的に書く訓練はしておらず、情緒的に読む訓練しかしていない。
・パッケージをやったら自由研究。それはおかしいのでは。
・教員も研究を知らない。
・「大人は発達が止まる」それは身体的な意味で。
・大人の発達は捉え方が難しい。身体的発達は、縦には行かず、横には伸びる。学び成長していける面もあるのでは。
・コンプレックスシステムは、確か、フィンランドが取り入れている。
・フィンランドは、ロシア領で、影響を受けている。
・言語を学習することで、思考力も上がるとヴィゴツキーは考えている。
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●訳者あとがき
・ヴィゴツキーは、ロシア生まれ。38歳で死亡。心理学におけるモーツァルト。
・1990年代に、認知科学の登場から、アメリカでヴィゴツキーのブームが生じた。
・「発達の最近接領域」に目をつけたのが、ブルーナー。
・彼は「スキャフォルディング(足場かけ)」の概念で使用。
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中原研の皆さん、企画して下さったゼミ長の新村さん、ありがとうございました!
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参考:中原先生の翌日のブログ(9月2日)
http://www.nakahara-lab.net/blog/archive/13292
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『思考と言語』ヴィゴツキー(著)柴田義松(訳)(2001)
1.研究方法と問題
・心理学における問題:
1)思想と言葉の同一視 2)思想と言葉の断絶、分離
この2つの間を動揺している。
・言語的思考に固有な特質をそなえ、それ以上には分解できない単位=意味
・意味とは、ものごとの一般化。そしてそれは言語的な思考活動。
・ことばは何より社会的交流の手段であり、発話と理解の手段である。
2.ピアジェの心理学説における子どものことばと思考の問題
・子どもの思考の問題が、量的次元の問題とされているときに、ピアジェはそれを質的問題として提起した。
・子どもは、決して「小さな大人」ではない。
・自閉的思考は、個人的なもの。
・自己自身を伝達することはできない思想を、自己中心的思想と呼ぶよう提案する(ピアジェ)
・自閉的思考は、最初の段階の思想ではない。
・ピアジェは、子どもの会話を
1)自己中心的なことば 2)社会化されたことば と2つのグループに分けることができると考えた。
・自己中心的ことばは、外言から内言への過渡的形式である。
・社会的ことば-自己中心的ことば-内言
・子どもの思考の発達過程は、社会的なものから、個人的なものへと進む。
・哲学がないということそのものが、完全に一定の哲学を意味する。
・純粋の経験論に完全にとどまろうとする試みが、ピアジェの研究の特徴。
・ピアジェが調査したような子どもの思考は、彼が言ったように展開した。
・労働している子どもにおける思考の発達を研究する事が必要。
3.シュテルンの心理学説におけることばの発達の問題
・ことばの3つの根源:表現的、社会的、意図的傾向
・1歳半から2歳の間に、こどもは「すべてのものが、自分の名前を持つ」ことを発見する。
4.思考とことばの発生的根源
・思考とことばは、それぞれ発生的に全く異なる根源を持つ。
・チンパンジーの行動は、ことばとは全く無関係である。
・チンパンジーは、自分のしようと思う、あるいは他の動物にさせたいと思う運動や動作をはじめてみるという方法をとる。
・多くの心理学者は、内言と思考とを同一視しようとさえした。
5.概念発達の実験的研究
・概念研究の伝統的方法2つ:
1)定義法 2)抽象化
・概念発達の三段階:
1)非組織的な未整理な集合の形成
2)多種多様な複合的思考
3)分節化、分析、抽象、概念 ?
6.子どもにおける科学的概念の発達の研究
・科学的概念の発達は、自然発生的概念の発達を追い越す。
・生活的概念の弱点は、抽象化の出来ないこと、随意に操作できないこと。
・科学的概念の弱点は、言葉主義、具体的内容の不足。
・概念の直接教授は、事実上つねに不可能。
・科学的概念は、生活的概念と同じようには発達しない。
・母語と外国語の長所と短所は、生活的概念と科学的概念の発達に、類似の関係をもつ。
・内省がいくらかでもはっきりと発生し始めるのは、学齢期になってから。
・教授と発達の関係:
1)教授と発達とを、二つの相互に依存することのない独立の過程と考える(ピアジェ)
2)教授と発達の過程を、同一視する(ジェームズ、ソーンダイク)
3)上記2つの中間に立ち、発達は二元的性格を持っていると考える(コフカ)
・1)2)においては、教授は発達に何の変化も起こさないと考える。
3)は、教授は発達の前を進むと考える。
・書きことばは、話しことばの本質的な特徴:音を欠いたことばである。
・書きことばは、二重の抽象:ことばの音声的側面と対話者の抽象を要求する。
・書きことばは、内言の後に現れる。内言への鍵である。
・内言は、最大限に省略され、短縮された速記ことばである。
・語りて以外の誰も理解できない。
・書きことばは、他人に最大限理解されることを目指したことば。
・教授は、発達の前を進む。
・発達の最近接領域
・子どもは、共同のなかでは、自分一人でする作業のときよりも強力になり、有能になる。
・教育学は、子どもの発達の昨日ではなく、明日に目を向けなければならない。
・コンプレックスシステムは、発達の最近接領域を考慮しなかった。
・教授は、それが発達の前を進む時にのみ良い教授である。
・科学的概念の発達は、外国語と母語の発達過程が相互に結び付いているのと同じように、生活的概念の発達と結びついている。
・すべての概念は、一般化である。
7.思想と言葉
・内言は、心理学研究の中でも、最も困難な領域。
・自己中心的ことばは、内言へ向かって発達する。
・極めて深い心理的接触をもって生活している人々の間には、片言の省略された言葉だけによる理解がなされている。(○High Context)
●訳者
・ヴィゴツキーは、ピアジェの「自己中心性」の概念を徹底的に批判。
・ヴィゴツキーは、1896年に生まれ、37歳半の若さで、1934年に亡くなった。
・心理学におけるモーツァルトと呼ばれる。
・心理学諸流派は2つに分けられる 1)説明的 2)記述的
・歴史を唯物論的に理解しようとしたヴィゴツキーは、人間の心理発達の基礎には、人間の実際的活動と言語的コミュニケーションがあると考えた。
・人間の頭脳では、AとBとの結合が、Xを媒介として行われる。
X
A B
・ピアジェの言う自己中心的ことばは、外言から内言への移行過程で生ずる特殊な現象に他ならないという見解は、ヴィゴツキーの優れた着眼であり、最も大きな功績の一つ。
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