○安岡正篤先生の本。年末に買った到知出版社の「安岡正篤 活学選集」全10巻から。(東洋古典2冊)
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『人物を修める』(1977、2018)
・「重役たる者は、忙しいということを口にしてはいけない」 佐藤一斎
・ここまで発達した科学・技術は、今後改めて道徳と結びつかなければ、恐るべき破壊に瀕するに違いない。(ニクソン大統領 特別補佐官 モイニハン)
・「道徳」は、「敬」するという心と、「恥」ずるという心になって現れる。
・東洋人は、事業だけでは満足しない。「徳業」にならないと満足しない。
・陰陽の割合は、陰が51%、陽が49%ぐらいであるのが一番適当。
・学ばないから混乱が起こる。「学んで思わざればくらし、思うて学ばざればあやうし。」
・明るいということは、最も大事な本質。
・専門にとらわれるということは、部分に堕すること。
・古典は人間にとって大きな教えであり、また救いにもなるばかりでなく、下手な専門書を読むより、はるかに人間としての活きた示唆や反省を与えてくれるもの。
○確かに、乾いた心に染み入ってくる感じがする。
・知ることは、物をわかつこと。分かれていくうちに、次第に根本から遠ざかる。
・それを救うのが、結ぶという働き。「わかる」という働きと「結ぶ」という働きが一緒なって、初めて生、存在、実在というものができる。
・孔子の儒教を一言でいえば「偉大なる生の学問」ということができる。
・「われ、いかに生くべきや」ということに尽きる。
・儒教は、修身・斉家・治国・平天下の学問である。
・「論語」を本気になって読めば、孔子の偉大さが分かる。人間として一番徹底した人、できた人はやはり孔子ではないか。
・「士大夫三日書を読まざればたちまち理義胸中に交わらず。」(宋の黄山谷)
・まず吐いてから吸うのでなければ、本当の呼吸とは言えない。呼(息を吐くこと)吸(すうこと)。
・儒を学ぶものは、必ず老荘を学び、老荘を学ぶものは、必ず儒を学んで初めて全きを得る。
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・「胆識」とは、安岡学の神髄ではないか。
・逆境の時に、安岡先生の教えというものがいかに大きな力になるか。
・「喜神」を含む。どんなに苦しいことに遭っても、心のどこか奥のほうに喜びを持つ。
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『先哲講座』(1988、2018)
・真剣に歴史を学べば、解決策というものは全部書いてある。
・生きた人物と精神のかよった施設。
・理論と設備だけでは、人間教育はできない。
・文献の本当の意味は、賢者あるいは哲人と記録である。
・「患難は亦これ事を経ざる人の良薬なり」
・才を用いるには、警戒と訓練が必要。
・本当の利とは、義の和。
・「人を用うるは其の短を棄て、長を用うべし。人に癖無き者は稀なり。大本の所だに違なくば、少しの癖は癖にならず。」
・「されど小過をとがめず、備うるを求めず、そのものの癖と疵とを見て用うるにあり。」
・「陰徳とは、善事をなして、其善を人の知らんことを求めざるをいう。」
・「子孫の為に美田を買わず」
・広く善事を行い、陰徳を積むと、その徳がめぐって子孫の幸福となる。
○これを目指したいな~。
・「十年といえば長きようなれど、過隙の光陰指折り侍るべし。」
・立派な書物を選び、これを読んで、十分だというところまで考えて、本当に自分の心でつかむことを目的とする。
・「開闢以来の第一人(ただひとり)のみ」
・「能く人の言を受くる者にして、後一言を与うべし。」
・男子は、五十過ぎから、立派になる人間と、俗物になる人間とに分かれてくる。
○51歳の今、俗物にはなりたくないな~。
・人間学の根本、本筋は、「修己治人」。
・「一善を廃すれば則ち衆善廃る。一悪を賞すれば則ち衆悪帰す。」
・広瀬淡窓(大分県日田生まれ)は、教える、学ぶ、改めるということは、自分の問題であり、まず自分を新たにしなければだめだと常に教えた人。『自新録』
○奥さんの実家の隣町の人。
・「学而時習之。不亦説乎。」 学んで之を時習(じしゅう)す、またよろこばしからずや。
・日常体験する一つ一つを、いい加減にしないで、そのとき、そのときを生かして勉強する、活用する、これが「時習」。
・「習」という字は、親鳥が翔ぶのをお手本にして、ひな鳥が翔ぶ稽古をするように、体験する、実践をするという意味。
・本当の学問は、年をとるほど、世にでるほど、やらなければならない。
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●参考
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