【木曜日23-36】「鑑真」本

木曜日

【木曜日23-36】「鑑真」本

○ときがわ町長の渡辺さんにお薦め頂いた本がきっかけで読んでいる鑑真の本。(教養本3冊)

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『天平の甍(いらか)』 井上靖(1957)

・人間の苦しみというものは、結局は自分自身しか解らない。

・「たれか日本国に渡って戒法を伝える者はないか」
 「お前たちがいかないなら、私が行くことにしよう」

・鑑真の渡日ということは、初めて日本に真の戒律が伝わることである。

・(玄朗のように)むしろ唐の女を妻にしているというだけで、いい加減なことを頭に詰め込んだ連中より、十分帰国の資格があるだろうと、大伴古麿は考えているよう。

・(業行曰く)私の写したあの経典は、日本の土を踏むと、自分で歩き出しますよ。私を棄ててどんどん方々へ歩いていきますよ。

・知識を得るということは、命がけのことであり、彼の星のさだめによる。

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『鑑真』 東野治之(2009)

・来日した背後には、鑑真なりの大きな見取り図が用意されていたに違いない。

・鑑真は、688年の生まれ、数え年の76歳で亡くなった。

・戒律を細かく分けると、道徳的な戒めである戒と、集団生活の規律である律。

・鑑真ほど、清く戒律を保っている僧はなく「大和上、独り秀でて倫(ともがら)なし」と評判されるまでになった。

・鑑真を尊敬してやまない上下の人々の経済的支援があったはず。
・説法や授戒は、資金集めの機会でもあった。

・日本では、戒律どおりの受戒が行われていなかった。
・戒律の権威とされ、仏教界に強い影響力もある鑑真に依頼するほかないと考えた。

・鑑真は、聖武天皇から、授戒と戒律の伝習に関して、一任を受けた。
・鑑真は、きわめて冷静に日本の仏教の水準を見極めようとした。

・鑑真は、最盛期の唐から文化、文明をもたらし、日本文化に大きな貢献をした。

・平安時代の初めに、上野国を拠点として、積極的に民間布教を行い、人々の広範な尊敬を集めたのが、鑑真の弟子「道忠(どうちゅう)」

○この人(道忠)が、慈光寺@ときがわ町を、創建!

・最澄が、日本の天台宗を開くきっかけを与えた。
・最澄は、鑑真の請来した天台の三大部に出合った。

・最澄は、独自の戒律、大乗戒を提唱した。
・最澄は、とても具足戒を守れないという厳しい反省があり、大乗戒という新しい考え方に到達した。
・最澄こそ、鑑真の継承者といって間違いではない。

・最澄は、東国にいた道忠の助けを借りて、その地への布教に力を入れ、多くの弟子を育てました。

○この時に、最澄と慈光寺との関係ができたのかも。ここもう少し調べていこう!

・鑑真たちは、日本で、自分たちの教育を受け入れようとする、多くのまっさらな人材を見出したのではないか。
・日本でこそ、仏教を本当に布教できるのではないか。

・戒律のない仏教。日本の仏教は、国際基準を満たしてない。
・鑑真がもたらした戒律は、ついに日本に定着しなかった。

・現代の中国では、鑑真は、日中友好に尽くした先人として偉大な模範と仰がれている。

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『鑑真』 安藤更生(1967)

・最近では、鑑真と言えば「天平の甍」でしょうとくる。井上靖さんの小説や前進座の芝居のお陰。

・鑑真に関しては、文豪近江三船の『東征伝』が遺っていて、かなり細かい行動が分かるし、招堤寺(しょうだいじ)へ行けば、生けるが如き肖像がある。

・開港場に生活する人は、人種的な偏見が少ない。
・鑑真が、日本のために身命を賭したという背景には、揚州の国際的雰囲気に慣れた人だったということが大きく作用している。

・大化の改新後、僧の行基が立ち上がった。彼は、実践型の宗教家だったらしい。

・鑑真が方々で授戒式などをやっているのは、旅費の捻出のため。

・自分の肉身を心配してくれて、かえって自分の志を遂げることを障げた霊祐は、わが同志とも門下ともいえない。

・副使大伴古麻呂は、反骨精神の強い男だった。独断で、ひそかに和上たちを招いて、自分の船に収容して、知らぬ顔をしていた。

・阿倍仲麻呂が、753年11月15日、唐を離れて故国に向かう際に、短歌一首を詠じた。「あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも」

・753年12月20日、日本(薩摩国秋妻屋浦)に到着。742年の第1回の渡日計画依頼、12年、五度の挫折、大難を乗り越えて、第6度目になってやって日本の土を踏んだ。

・鑑真が持ってきた天台大師の著書を観て、最澄は天台宗に目を覚まし、ついには比叡山を開いて、日本天台宗の祖となった。

・鑑真には、武蔵の国に「道忠」という弟子があって、鑑真は弟子中で「持戒第一」と言っていた。

○慈光寺の「開山塔」は、道忠のためのものだそう。

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●参考:慈光寺@ときがわ町との関係

奈良時代になりまして、唐より波濤を越えて来朝しました鑑真和上の高弟、釈 道忠によって、慈光寺は創建されました。

平安時代になりますと、伝教大師最澄が比叡山に天台宗を開教しましたが、その折には道忠教団によって2000余巻の経典が奉納されたと『叡山大師伝』に記されております。

(慈光寺ウェブサイトより)

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●参考:道忠と最澄との関係

最澄と道忠、その門弟らとの交流は比叡山寺の人材を育てることになり、東国の化主たる道忠と弟子の広智、徳円らに学び、付法された青年僧が、初期天台教団の座主を務めるようになります。

(さいたま市在住 林信男氏による「研鑽ノート」最澄と道忠一門~山上多重塔のかなたに~2より)

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●参考:慈光茶 埼玉・ときがわの町田屋旅館、幻の「慈光茶」で町おこし – 日本経済新聞 (nikkei.com)

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投稿者:関根雅泰

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